「暴力」という名のパセリを食すことについて

「キッズ・リターン/北野武監督」を観た。私は北野作品をたくさん観ているわけじゃないけど、やっぱり苦手だな。暴力シーンが容赦なくという感じで描かれる。たとえば「カツアゲ」のシーン。私はなに不自由なく育った唐変木な若者だった。争いごとが嫌いだったし、部活でも「練習は好きでも試合は負ける」というタイプだった。なにごとも「話せば分かる」と信じていた。つまり「本当の闇から発生する悪意」というものに対して、経験があまりなかったし、実際にうまくイメージできなかった。

大学生時代に、一度だけカツアゲされたことがある。阪急電車の東向日駅から独りで歩いていると、いきなり白っぽいスーツみたいなのを着た「あんちゃん」に、蹴られた。私は混乱しながら、言われるままに一万円を渡した。あんちゃんは、すっと消えていった。そのときの私の感情は、ひとことでは言い表しにくい。「純粋な負の感情」に生まれて初めて遭遇した、そんな感じ。こんな理屈もへったくれもない邪悪な感情が、世の中には存在するんだ、という驚きだった。



でも人間、世の中に出て主体的に生きれば生きるほど、「暴力」に遭遇することは多くなる。世の中にある「暴力」の形態は、ホントに様々である。いじめ、パワハラ、セクハラ、ブラック企業、通り魔殺人、ISのテロ、そして北朝鮮。大人になってからの暴力は、ヒエラルキーや人間関係にまつわる暴力が多くなるかな? 学生時代の私は実際に蹴られたわけだけど、こうした社会に潜む暴力は「刷り込まれた邪悪さ」なんだね。そう、社会には「様々なる暴力」がウヨウヨしている。我々はその中で、なんとかかんとか生きていかねばならない。

北野監督が何度も何度もそういった暴力を描くのは、彼一流のリアリズムの表現なんだと思う。何度も何度もカツアゲのシーンを見せられて、特に面白いとも思わない。というか不快だ。でも北野監督は「人生なんて、もともと不快なもんだろうよ」と突き放すに違いない。ヤワな平和主義者の私なんかは、苦いパセリを食すように北野作品を観るべきなのかなと思ったり。「暴力」という名のビタミンを摂取するのだ。

高校三年生の落ちこぼれ、マサル(金子賢)とシンジ(安藤政信)。彼らは子どもである。マサルはやくざになり、シンジはボクシングで頭角を現す。お互いにいいところまで行くが、やはり子ども。結局のところ、大人の「穢れ」に無防備なのだ。子どもはすぐに心を許しちゃうからね。かくして「出る杭は打たれ」て、二人とも手ひどい傷を受ける。腹黒い大人の餌食となった二人は、社会の深淵へたたき落とされる。

万物は流転する。

これは本作のテーマだと思う。学生時代が終わり社会に出ると、誰もがその「容赦なく変化する社会」に放り込まれる。ある者は転職してタクシー運転手、ある者は漫才師で成功、そしてマサルとシンジは上記の通り派手にコケた。でも、これで終わりじゃない。まさに「万物は流転する」から。あるいは「盛者必衰」という言葉を借りてもよい。社会にでるということは、世の中の、あるいは己のなかの魑魅魍魎と相対するということだ。あらゆる暴力に対して、注意を怠らないこと。人を信じすぎないこと。「人の良さ」は、大人になったら捨てるべき性質である。そんなの危険でしょうがないよ。


オレたちもう、終わっちゃったのかな?
バカやろう、まだ始まっちゃいねえよ

若者は、これぐらい強がってほしい。彼らはいま絶望の中にいるけど、万物は流転するのだ。私は個人的に、絶望の中から出てくる力こそ本物だと思っている。絶望の中にある微笑みは清々しい。北野武監督は、ラストシーンでそう言いたかったに違いない。いやいや、北野作品はパセリだね。美味しくないけど、生きるのには必要だと思いました。