ひさびさの白血病のムンテラに緊張した(まるちょう診療録より)

50代の男性で、二ヶ月くらい前から息切れがすると。歩いていると、息切れしやすい。あと、足もむくんできたような気がする。奥様が心配されて、同伴。既往は特になし。診察では、頻脈(105とか)が気になった。足は浮腫はないと思った。結膜は一瞬、色がうすいような気もしたが、なんとも言えない。胸部の聴診はNP。心不全など除外のため、ECGと胸部レ線。5月の健診で問題はなかったとのこと。はじめは採血はする気はなかったのだが、奥様がとくに希望された。それじゃ、やりましょう。まあ、数ヶ月で変化はないでしょうけどね。おとなしい旦那さんで、口数は少ない。

その日はあまり混雑はなく、ちょいちょいその男性の検査結果をチェックしていた。ECGとレ線は問題ない。心不全ではない、、 でもやはりHRは100以上。なんだろう? しばらくしてCBCの結果が入ってくる。WBC1100、Hb4.6、PLT13000。いわゆる汎血球減少である。息切れなどの症状は、主に重度の貧血によるものと思われる。肝硬変などもないではないが、やはり本命は血液疾患か。白血病、MDS、再生不良性貧血など。


しばらくして、採血の結果が上がってくる。オーダーにはなかった目視での白血球分類(技師さんありがとう)を見る。芽球8.0%、骨髄球1.0%、後骨髄球2.0% ☞ 急性白血病で。たぶんAMLと思うが、最終診断はマルクをしてから。しかし、採血しておいてよかった(汗)。

さて。ここまでは特に難しいところはない。臨床でホントに大変なのは、ここから。僕はできるだけ「白血病」という言葉を使わずに、本人様と奥様に説明したかった。いわゆる「婉曲的に」告知すること。これを段階的告知といいます。これは確固たる医療技術であり、患者さんと家族の精神的なQOLに大きく関わってくる。本人と家族は「まさか」大病とは思っていない。というか、思っていたとしても、意識的には否定されて無意識の中へ抑圧されている。そこへ「白血病です」と何の配慮もなく告知することは、ビルの屋上から背中をドンと押すようなものである。段階的告知は、医療者が持っている事実を「小出し」にすることで、患者さんの「心の準備の余裕」を作ってあげるということです。

ECG、レ線、そして採血の説明。血球系の異常について。「重度の貧血があり、息切れが起こっていたこと。そして血小板減少は出血のリスクが大きいこと」を説明。そこでまず第一弾の提案。「入院が必要です」 そこで奥様がおもむろに発言された。「私たち、いつもC病院でお世話になっているので、できればC病院に入院したいです」 C病院はリンパ腫は治療可能だけど、白血病を治療する体制はない。しかたなく、僕はこう付け足した。「ご主人は白血病の可能性があります。C病院では治療できないので、大学病院などのもっと大規模な病院で治療する必要があります」

奥様の眼がうるっとなったのを覚えている。ここでも「白血病です」と断言してはいけない。そうじゃない可能性も残されているよ、という説明が大事。われわれ医療サイドとしては、ほぼほぼ白血病で決定であるとしても。そうして結局、RC病院へ転送となる。骨髄移植の設備もあるようだ。どうか、うまく行きますように。僕は超速で紹介状を書いて、すぐに発熱外来へ向かった。

最後に。段階的告知という医療技術は、簡単にいうと「善意のウソ」をつくことである。本来よくないと言われる「ウソ」が、患者さんのセーフティネットとなるのだ。『一切れのパン』(F・ムンテヤーヌ著)という短篇小説があります。中学校の教科書なんかで載っているやつです。まさに「善意のウソ」をモチーフにしていて、段階的告知をしたあと、いつもこの短編を思い出す。以上、まるちょうの診療録からお届けしました。