「人生は死ぬまでの暇つぶし」という言葉について

タイトルにある言葉、ご存知でしたか? 漫画家のみうらじゅんさんの言葉です。この言葉を聞いて、反応として大きくふたつに分かれると思う。つまり、救われる人、嫌悪する人。僕自身はどちらかというと、後者だったかな。

この言葉の本質は「リラクゼーション」だと思っている。つまり、人生の重圧や苛烈さに打ちのめされている人にとって「慰め」となる言葉ね。みうらじゅんさんは、善意をもってこの言葉を呈示したはず。「失敗したり、恥をかいたり、思うようにいかなかったりしても、気にすんな、人生に意味なんてないんだ。もっと力抜いて行こうぜ」みたいなことです、たぶん。

そして、この言葉は間違っていないのです、たぶん。人生にはもともと意味なんてなく、本来的に自由なシロモノなんですね。「こうあるべき」とか「これが正しい」と人は偏りがちですが、それは俯瞰的にみると「幻想」であることが多い。


この言葉に嫌悪するって、どういうことだろう? やはりある程度、人生のレールに乗っかって、一貫性を持って何かしら生産している人は、眉をひそめるかも。だって、自分のやっている「生産」を暇つぶしなんて言われるんだから。そら、りっぱな侮辱だよね。嫌悪派のみなさんのお怒りもごもっともだ。

ホントにこの言葉を間に受けて「え?人生、暇つぶしでいいんだ!」となった場合、これはある種の悲劇が待っているような気がする。だって、上記の「嫌悪派」の人たちの方が、ずっと「生きやすい」のだから。彼らはすでに「生きるベクトル」を持っている。そのベクトルに乗っかって、とくに悩みもせず生活すれば、そこそこの人生が保証される。

暇つぶしをずっと続ける、というのは、地獄でしかない。だって、ずっと「堂々めぐり」なんだよ。真っ白な自由にくるまれて、どこにもたどり着けない。「暇つぶし」を真剣にやって、なんらかのベクトルが生まれたら、それは幸いなるかな。ただ、繰り返すけど「暇つぶしを真剣にする」必要がある。暇つぶしで、暇をつぶす。これは退屈のアリ地獄だ! そこには「生きている実感」はないと思う。

真っ白な自由は山頂の空気に似ている。弱者はその「うすい空気」に耐えることができない。ならば、自分がその「真っ白な自由」に意味付けをひとつひとつしていくしかない。最初はそれこそ、暇つぶしなのかもしれない。しかし「暇つぶしを真剣にする」うちに、その人生はいつしか「自分色」になっているかもしれない。冒頭のみうらじゅんさんは多才な人だけど、おそらく「ひとつひとつの暇つぶしに真剣に対峙してきた」んだと思う。だからこそ、多才なのね。どの暇つぶしも軽んじないというか。でもでも、究極的にはそれら「多才」のどれもが「幻想」なんです。みうらさんは、ちゃんとそれが分かっている。だからこそ、人生の達人たるわけです。 「暇つぶし」という表現は、だから謙遜も含まれると思う。あるいは「諦念」というかね。

「人生は死ぬまでの暇つぶし」とは、やはり含蓄のある言葉です。今回、こうして文章にできて、自分なりに整理できたかも。偉そうに、すんません。とりあえず、これでアップいたしますm(_ _)m