「自由」ってなんだろう?

まるちょうは常日頃「ほぼ日手帳」を愛用しています。かれこれ七年目になるかな。ひとことで表現すると「アナログの極み」ということになるか。デジタルが世にあふれる昨今、こうした人間のふるさとである「ファジーさ」を支援するツールは、貴重だと思う。「ほぼ日手帳」のアナログ的な部分を象徴するのが「本日の言葉」。さる9月5日の言葉が、すごく深くて心に残った。それを敷衍して、ちょっと文章を書いてみたいと思います。

私たちの「自由」って、よく考えると、つねに「後づけ」なんですよ。ふつう、みんな自由っていうイメージを未来に対して抱くと思うんですけど、ほんとは違うんですよ。行動してみて、思い通りであったら、後からそこに自由を、はじめて感じるんであって、けっきょく、後づけなんですよね。自由は過去にしかないんです。ーーー 池谷裕二さんが「脳の気持ちになって考えてみてください。」の中で

Wikiより・・池谷 裕二(いけがや ゆうじ、1970年8月16日 – )は東京大学・大学院薬学系研究科・准教授である。神経科学および薬理学を専門とし、海馬や大脳皮質の可塑性を研究する。脳研究の知見を平易な言葉で解説する一般向けの著作を数多く著し、世間一般から広く認知されている。


まるろぐでは「海馬ー脳は疲れないー」という糸井重里との対談本を、過去に紹介(☞こちら)しています。糸井さんとは、その後も何度か対談されているみたい。上記の言葉は、その中の一節だろう。さて前置きが長くなった。上記の言葉を出立点として、考察してみる。

「自由は過去にしかない」・・インパクトのある、深い言葉。まるちょうは「自由を感じたとき、その出自は己が過去に下した決断にある」と解釈します。そこでふたつほど、重要なポイントが見えてくる。

#1 決断をしなければ、自由にはなれない

#2 人生は、本質的に冒険である


まず#1について。まるちょうは20代までよりも、今の方が「自由」を感じています。それはなぜかと考えると、自我が弱かったからだと思うのね。とても従順で人の良い少年だった。自分の意見を持つということをしなかった。臆病で優柔不断だったとも思う。したがって「決断」はいつも人任せ。そんな人間に「自由」など感じられるはずもないわけ。それは「資格」という表現をしてもいいと思う。「決断できない人間には、自由を感じる資格がない」と。

結婚して一家の主となり、自分の責任で決断することも多くなった。もちろん失敗もある。でも若い頃に比べて、ずっと自由を実感しています。自ら身銭を切ることで、人生を切り開くこと。これこそ「自由というものの実体」ではないでしょうか。

次に#2について。自由を感じるためには「決断」が必要なことは分かった。しかし「決断」というもの、当たり前のことだが非常に危うい。常にリスクがついてまわる。例えば、結婚という「決断」について考えてみよう。これ、結構ハイリスクですよ。というか、何十年も先の自分の「快不快」を推し量ることなんて、ほぼムリです。ある意味「エイっ」と飛び込むくらいの気合いが必要です。勢いというかね。一般的に、そういうのを「勇気」と呼びますが。

そういう視点で人生をみると、本質的に冒険なんですね。あらかじめ保証された「自由」など存在しない。 険しい道のりを、自分の足で一歩一歩前に進むというプロセスを、結局のところ避けることができない。「ダンス・ダンス・ダンス/村上春樹作」の中で、主人公に向かって羊男がこう諭します。

「踊るんだよ。音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい? 踊るんだ。踊り続けるんだ。何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。そんなこと考えだしたら足が停まる。一度停まったら、もうおいらにはなんともしてあげられなくなってしまう。あんたの繋がりはもう何もなくなってしまう。永遠になくなってしまうんだよ。(中略)どれだけ馬鹿馬鹿しく思えても、そんなこと気にしちゃいけない。きちんとステップを踏んで踊り続けるんだよ。(以下略)」

まるちょうは、この言葉を「人生訓」と思っている。自由を感じるためには、足が停まってはいけない。きちんと自分のステップを踏んで踊り続けなければ、想定した「自由」は訪れない。意味なんか考えるな。とにかく足を動かすんだ。そうでないと「自由」は勝ち取れない。次の言葉で〆とします。ちょっとカッコつけすぎかな?(笑)

自由を感じるためには、それ相応の『血』を流さなければならない。その覚悟のない者にとって、人生は重すぎる。なぜなら、人生そのものが冒険だから。

オドルンダヨ。オンガクノツヅクカギリ。