「リア充」という言葉がある。この言葉を目にすると、いつもある「違和感」が頭をよぎる。それが何なんだろう?と、気になっていた。一番の疑問は「まるちょうはリア充なのか?」という点。ここを出立点として話を展開していくと、この不思議な言葉の深淵に手が届くかもしれない。そういう観点で、少し文章を書いてみたい。
「リア充」のごく素直な定義は「リアルな生活が充実している人」ということになる。その逆は「ネト充」あるいは「非リア充」と呼ぶらしい。これまたごく素直に解釈すると「リアルな生活が充実していない人、ネットの仮想的な人間関係に逃げている人」ということになるだろうか。
では、まるちょうはリア充なのか? もちろん簡単には答えは出ない。ただひとつ言えるのは、1998年から双極性障害の治療に専念していた頃は、まさに「非リア充」だった。仕事量が週一回(半年の休職も含む)という状況で、リアルな人間関係がほぼ断絶された。2002年のお蝶夫人♪との出逢いまでは、本当に孤独なネット住人だった。メル友がたくさんいて、毎日メールを書いた。HPを立ち上げて、毎日日記を書く習慣もついた。オフ会なんかもちょこちょこしたっけ。その一方で、医局の同期の先生との関係は薄れていった。正直に書くと、ひどい劣等感だった。自然と萎縮してしまい、同期の先生方と対面すると、できるだけ早くその場から逃れたかった。
そうした「非リア充期」を経て、現在の伴侶、お蝶夫人♪との邂逅が2002年。トントン拍子で結婚→現在8年目となる。この現在、私はリア充なのだろうか? 家庭持ちゆえ、リアルな人間関係は確かにある。毎日が夫婦関係、親子関係に関する勉強であり、それなりに充実している。また、ネット仲間というのも「非リア充期」の頃に比べると、ぐっと減った。というか、ほとんどいない。Blogはかなり真剣に書いてるけど、これはあくまでも不特定多数の「誰か」への発信である。「読みたければ、読んでくれ」みたいな、極めて自由な形態。そうそう、ツイッターはやってるな。でも、これもあくまでもゆるいネットの繋がり。以上をまとめると、まるちょうはリア充と言えなくないかもしれない。
ただ、ひとつここで「違和感」が浮上するのだ。それは、いわゆる「リア充」のイメージ。ちなみに「アンサイクロペディア」によると、次の項目のうち7つ以上当てはまると、本物のリア充とのこと。
※恋人が1人以上いる。複数いる場合、全員とうまく関係を保っている。
※アドレス帳登録数が200件以上。収まりきらないため携帯が2つある
※一日の平均メール数が10以上(迷惑メールを除く)来る。
※ほぼ毎日なんらかの形で電話(業務連絡および迷惑電話を除く)する、もしくは来る。
※誕生日イベントによくからみ、ホームパーティーを計画する。
※昼食や夕食を友人と食べることが多い。
※日遊ぶ友達が3人以上いる。
※働いたら負けかななんてことは夢にも思わない。
※他の人に堂々と言える趣味がある(ライブ三昧・サッカー観戦等)。
※将来に希望が見出せる。
ちなみにまるちょうは、辛うじて4項目当てはまる。つまり「本物のリア充」ではないことになる。更に「同人用語の基礎知識」からは、右のようなリア充のイメージ画像が貼られている。私は結婚しているからアレだけど、あまり自分には当てはまっていないような気がする。要するに、友達がいないのね。普段遊ぶ友達。家族以外の繋がりが極端に少ない。
考えてみると、私という人間は双極性障害という病気を持っているので、ある一定の仕事をした後は、必ず数時間の睡眠をとる必要がある。だから勤務終了後に、どこかに遊びに行くというような余裕は全くないのだ。いつも仕事が終わったらクタクタで、自宅へ直帰である。どこかに立ち寄るということすら、ほとんどない。ひたすら帰って寝ることが楽しみなのだ。医師としての仕事による精神的疲労が、常人の倍以上はある。すべからく、日常的に遊ぶ友達は少なくなる。というか、いない。
でもひとつ物申したい。マスメディアの煽り立てる「リア充」のイメージである。例えば「Gainer」という雑誌がある。要するに「モテるアラサー男性像」を、これでもかと呈示するメディアである。アラフォー、アラフィフなら「LEON」になるかもしれない。こうした生活感の全くない「流行の最先端をいく、センスよくモテるスマートな男性像」というのに、まるちょうは困惑するのだ。これは村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」で出てくる五反田くんそのものである。村上さんは「五反田くん」という独特なキャラを登場させることにより、資本主義社会の愚劣さを、とても印象的に描いている(詳細は→こちらを参照)。要するに、全て虚像なのね。メディアが幻想を振りまいて、大衆は煽られ、どんどん消費していく。すると、景気は上向きになる。アイデンティティの欠如した消費サイクル。愚劣の極み。
まるちょうは「Gainer」や「LEON」が振りまく、こうした幻想を、一種の悪意とさえ感じてしまう。雑誌の発する目線が上からなのね。あか抜けない読者は、かしこまってしまう。アホちゃうか。こうした「有害な」幻想により、「非リア充」という差別的なカテゴリーは「おまえはダメな奴」という刻印を額に押されてしまうのだ。
結論。まるちょうはリア充でなくて結構。その代わり、現在はネト充でもないし、おそらくグレーゾーンなんだろう。でも人生、グレーゾーンが一番賢いのよ。隠れて生きるべし。誰かにカテゴライズされる生き方なんて、まっぴらごめんだ。俺は俺の道を行く。ちゅーわけで、最後は格好よくまとめてみました(笑)。