ダンス・ダンス・ダンス(2)/村上春樹

前回に引き続き「ダンス×3」について語る。今回は「高度資本主義社会の愚劣さ」というお題で。「高度資本主義社会」という言葉は、紛れもなく本作のキーワードである。ここで重要な登場人物が「五反田くん」。「僕」の中学時代のクラスメートで、ハンサムで頭もよく、感じのいい男。女の子はみな彼に失神しそうなくらいに憧れている。親切で誠実で思い上がったところがなく、どんな服を着ても清潔でスマート。便所で小便をする時でさえエレガント。スポーツも万能で、クラス委員としても有能だった。要するに「完全無欠」のイメージね。逆に言うと、実体が今ひとつつかめない。

現在の彼の職業はバツイチの俳優。多額の借金を背負っていて、所属事務所の指示する目の前の仕事をこなしていくしかない。経費で高級車を買い、女を買って、うまいものを食べる。そして、そうした生活を軽蔑してうんざりしている。別れた妻をまだ愛しているが、元妻の親族の妨害でよりを戻すことはできない。でもたまに元妻と寝ている。どこにも行けない状況。


この五反田くんは、まさに「高度資本主義社会」の象徴だと思う。彼は以下のように、自分を取り巻く状況を批判している。

「港区と欧州車とロレックスを手に入れれば一流だと思われる。下らないことだ。何の意味も無い。要するにね、僕が言いたいのは、必要というものはそういう風にして人為的に作り出されるということだ。自然に生まれるものではない。でっちあげられるんだ。誰も必要としていないものが、必要なものとしての幻想を与えられるんだ。簡単だよ。情報をどんどん作っていきゃあいいんだ。住むんなら港区、車ならBMW、時計はロレックスってね。ある種の人間はそういうものを手に入れることで差異化が達成されると思ってるんだ。みんなとは違うと思うのさ。そうすることによって結局みんなと同じになってることに気がつかないんだ。(以下略)」

まずイメージというものが先行する。これを煽り立てるのは、専らマスコミの仕事。もちろん、そこにたっぷりと資本は投下されている。いわゆる「ブランド」の誕生である。大衆はそこに群がり、一種のストークができる。そして、それを所有している自分が、ひとつ上のグレードに上がった錯覚を持つ。この「錯覚」は、言うまでもなく下らない幻想に過ぎない。成長したという実体がどこにもないのだ。

五反田くんは、その人生自体が俳優のようなものだった。要するに「優等生」を演じていたんだね。もちろん、彼にはそれをするだけの資質があり、選ばれた人種だった。しかし「演じる」ばかりでは、人生はどこか変な具合になってしまう。そう、「実体がない」のだ。最後に彼は「僕」に告白する。自分自身と、彼が演じている「自分自身」とのギャップがあるところまで開くと、いろんな悪事を働いた。鉛筆を折る、グラスを叩きつける、プラモデルを踏み潰す。友達の背中をついて崖から落とす。郵便ポストに放火する。猫をいろんな方法で殺す。そして・・その延長上でキキを絞め殺した。彼はそういう無意味で卑劣なことをやることによって、やっと自分自身が取り戻せるような気がしていた。全く無意識的な行為。彼曰く「これはあちら側の行為なんだ」と。そして、こうした悲劇はこれからも続くような気がして、狂いそうな不安感があると。

五反田くんの絶望の深さを考えると、気が遠くなりそうだ。彼はいつも「自分自身」に戻りたかった。彼は何も演じることなく、普通に平凡に暮らしたかった。彼の遺伝子に組み込まれた「演技」という業が、彼自身を闇の中に葬ってしまった。

高度資本主義社会における商品のイメージと実体の関係。その乖離が大きければ大きいほど、その商品は「病んでいる」と言える。しかし厳密な意味で、イメージと実体が同一であることはあり得ない。メディアを通して私たちが見ているのは、究極的には幻想なのだ。五反田くんという存在を考えるとき、高度資本主義社会の脆弱さを連想しないわけにはいかない。でも社会に関わっている限り、この愚劣なシステムからは逃れることはできない。一番大事なのは、そうしたシステムの中に無抵抗に組み込まれないこと。ある程度の距離をとって、自分の頭で考えることだろうと思う。

次回は#3の「『僕』のアイデンティティ」で語ります。