ダンス・ダンス・ダンス(1)/村上春樹

「ダンス・ダンス・ダンス」(村上春樹作)を再読した。村上さんは私にとって特別の作家であり、最低年に一度は長編を味わいたいと思っている。でも特別であるが故に「読み漁る」という感じはイヤ。「まだ読んでない長編が残っている」という期待感がある状態がよい。だから村上さんの長編は、年一冊で必要十分なのだ。

本作は、初めて村上さんの長編で「しっくりきた」作品である。最初に読んだのは、2000年前後だったと思う。例えば「羊をめぐる冒険」なんかは、やや取っつきにくかった。それに対して本作は結構スイスイ読めて、「どんどん読む快感」というようなものを体感させてくれた。当時の自分のリテラシーでは、本作がピッタリだったわけね。「羊をめぐる冒険」がクラシックなら、本作はポップスだろうと思う。何の根拠もないけど、漠然とそんな風に感じる。ポップスだからこそ取っつきやすい。本作の特長である。


まるちょうなりに、次のみっつの軸で語りたい。

#1 取り調べのシーン

#2 高度資本主義社会の愚劣さ

#3 「僕」のアイデンティティ


まずは#1から。最初読んだとき、このシーンがしばらく脳裏に焼き付いて離れなかった。話の筋はあらかた忘れてしまっても、この警察による取り調べのシーンの象徴的な執拗さ、リアルさ、息苦しさが、曖昧な固まりとなって私の心の中に残った。村上さん、過去にこうした経験をされているのかな?と思えるくらい。

メイという高級娼婦が殺された。その件で「僕」は任意同行から、蛇のようにしつこい取り調べを受ける。ある事情から「僕」は虚偽の証言をする。メイという女の子を知らないと。しかし、二人の刑事はその嘘を見逃さない。なんせ、筋金入りのプロだからね。「僕」が「漁師」と「文学」と名付けた二人の刑事は、そりゃもう強靭なプロ意識を持っている。人が一人殺されているのだ。この事件を解決するためには、どんな隙も見逃さない。虚偽の証言をする者に、二人は容赦しない。冷徹に叩きのめす。もちろん、極めて合法的なやり方で。僕の解放される直前の感想を引用する。

ひどい場所だ。ここでは人々があらゆる手段を使って人間の自我や感情や誇りや信念を圧殺しようとする。目に見える傷が残らないように心理的にこづきまわし、蟻の巣のような官僚的迷路を引きずり回し、人が抱く不安感を最大限に利用する。そして太陽の光を遠ざけ、ジャンク・フードを食べさせる。嫌な汗をかかせる。

もちろん「僕」が警察に、ある意味喧嘩を売っているわけだから、因果応報なわけだけど、それにしても凄まじい描写だと思った。「僕」は最終的には「やわになっている自分」を発見する。誰にもなんにも主張したくない。言いなり。しかし、それは仕方ないだろうと納得させる「ひからびた現実感」が、ここの描写にはあると思う。まるちょう的には、警察にお世話になることは、やはり避けたいと思うのでした。

次回は#2の「高度資本主義社会の愚劣さ」というお題で語ります。