背中で教えるということ

YouTubeを語るコーナー! ちょっといい映像があったので紹介する。まるちょうはこれを観て、何故かちょっと涙ぐんでしまった。なんでだろう? Blogを書きながら、自問自答してみたいと思います。辛口サッカー評論家、セルジオ越後の登場。2001年にテレビで流された映像のようだ。2002年の日韓W杯の直前。評論家ではなく「教育者、サッカー普及の先導者」としてのセルジオさんが描かれる。セルジオさんのことを「単なる口の悪いサッカー評論家」と捉えている人は、わりと多いんじゃないだろうか? 恥ずかしながら、まるちょうもその一人でした。この映像を観て「教育」という深遠な行為について、ちょっと考えさせられた。



場所は栃木県黒磯市。セルジオさんの開くサッカー教室の風景が描かれる。セルジオ率いる大人のチームに、子供のチームが次々と挑む。子供のチームは、1点取られたら終了というルール。この試合内容というか、セルジオさんの子供に対する姿勢が、ハッとするというか、驚いてしまった。子供に対して、全く手を抜かないのだ。ナレーションが言う通り「サッカー教室で、セルジオは何も教えてはいなかった。全力で、子どもたちを叩きのめす」。まさに「叩きのめす」という言葉が相応しい。全力のセルジオさんからは、サッカーのありとあらゆる技術が繰り出される。子供チームに少しでも隙があれば、鋭くそこにつけ込んで点を入れる。セルジオさんが繰り出すのは「正々堂々とした技術」だけではない。フェアでないプレーも随所にみられる。要するに、子どもたちに「正々堂々だけで世の中渡れると思ったら、大間違いだよ」という、リアリズムの極地を教えているのだ。

さて、こうして全力で叩きのめされた子どもたちの反応は? これが、笑顔なんだよね。すごく自然な笑顔。そしてセルジオさんに対する、尊敬と親近感。セルジオさん曰く「親戚に近い人間関係」と仰っている。子供たちにとっては、ちっぽけな自分に対して全力で対峙してくれた、という嬉しさがある。そう、勝負というのは、いつでも「本気対本気」であるべきなのです。だからこそ、面白い。心の底から喜怒哀楽が生まれ、対戦者同士に、ある種の冒し難い「共感」が生まれる。この勝負した者にしか理解できない「共感」が、セルジオさんと子供たちを結びつけていく。そして子供たちは「真剣勝負の厳しさ」を肌で覚えていく。セルジオさんの背中が「悔しいなら、しっかり練習してうまくなって、また来い」と語っている。

セルジオさんの姿勢をひとことで表したら「父性的な愛」ということになる。背中で教えるというやつだ。背中で教えるからには、その視線は子供の方を見ていない。見なくてもいいのだ。なぜなら、自分の頭の中で「正しいこと」がしかと描かれているから。だから「おまえら、俺についてこい」という態度で世間を渡っていける。というか、その資格がある。またその「正しいこと」の根底には「父としての優しい眼差し」がある。リアリズムに裏打ちされた厳しさだけど、ちゃんとそうした温かさはあるのだ。子供はそうした空気を本能的に嗅ぎ取り、心を許す。大げさに言えば、子供たちはセルジオさんの背中に「来るべき大人社会」を見ている。いい意味でも、悪い意味でも。こうしてセルジオさんの洗礼を受けた子供たちは50万人以上にのぼるという。辛口の資格を、ここに見た気がする。

昨今の教育というのは、母性的な側面が強い。子供に優しく、傷つけないように、大事に・・というイメージ。そうした姿勢は、確かに必要な時もある。子供が心身ともに痛んでいる時は、母性的に接してあげるべきだ。しかしセルジオさんの方法論は、健全な心身を持つ子供にとっては、より深く関われるのではないか? 両者が思い切りぶつかり合うことで、初めて見出される何かがあるように感じる。まるちょう自身がどちらかというと母性的な人間なので、こうした「背中で教える厳しい父」というイメージは、何か啓蒙される気がしたのです。そして、こうした自分にない資質に、憧れてしまうまるちょうなのでした。格好いい~

以上「YouTubeを語るコーナー」でした。