世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド/村上春樹作(2)

前回に引き続き「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」から。#2 村上さんの呈示する「世界の終り」について、まるちょうの私見を述べてみる。

「僕」が登場する極めて自己完結した世界・・上巻に地図まで付いている。周りを強大で高い煉瓦の壁に囲まれ、真ん中に川が流れて、一角獣が人と共生する街。ここでは、全てが平穏であり、憎しみや諍い、妬み、そしていじめもない。そして永遠の生があり、日々は淡々と過ぎてゆく。しかし、その代償として、この街にやってきた者は、その「影」を切り離さなければならない。「影」がやがて死んで正式に街の住人となれば、平穏な「不死」の生活を手に入れることができる。

「影」は何のメタファーだろう? いろいろ心理学的な述語が思い浮かぶんだけど、一番近いのは、人間の「心」に対応した要素だろう。心とは・・人を愛し、喜び、感動する一方で、ネガティブな要素も持ちうる。例えば上記のような、憎しみ、妬み、悲しみ等々。そう、心はある意味「諸刃の剣」なのである。歓喜がある一方で落胆がある。愛がある一方で憎しみがある。正義がある一方で退廃がある。人間はそうした「心」の振幅運動の中で生活している。まるちょうが罹患している双極性障害は、そのまさに「心の振幅」が破綻した病気です。「心の振幅」によって日頃苦しめられている者としては、この「街」の恒常的な平静さは、ちょっとだけ興味がある。ある意味ユートピアには違いない。


でもよくよく考えると、心がなければ人を愛せないのだ。人を好きになり、その人のために何かしたいと思う。そうした「心の動き」が不可能になってしまう。作中「僕」は図書館の女の子に恋をする。でも図書館の女の子は心がないので、愛の意味が解らない。「僕」はその女の子と寝ることは出来るが、そこに「愛」は発生しない。愛の代わりに「喪失感」が生じるのみ。すべては「心」があるがゆえに。

したがって「影」は「心の矛盾性」のメタファーじゃないだろうか? 相反する感情を抱くから「人間」なのだ。人はそれで苦しみ、悲しむ。人はそれだからこそ、愚劣だし不完全。そうした「人間の弱さ、不完全さ」こそが「影」の意味するところじゃないか。大雑把に「人間らしさ」という言い換えも出来る。

「僕」は自分の「影」を街から逃がしてやり、「心」を持ちながら森の中で暮らすことを選ぶ。森の中の生活は厳しい。街と違い、生きのびるための労働は厳しいし、冬は長くつらい。一度森に入れば、二度と出てくることは出来ないのだ。でも「僕」は自分なりの筋を通した。「僕」が「影」を逃した後の一節を引用しておく。

影を失ってしまうと、自分が宇宙の辺土に一人で残されたように感じられた。僕はもうどこにも行けず、どこにも戻れなかった。そこは世界の終りで、世界の終りはどこにも通じてはいないのだ。そこで世界は終息し、静かにとどまっているのだ。

こうして、読者は茫漠、荒涼とした「世界の終り」に導かれる。まるちょうは、立ちすくんじゃったよ。これが村上さんの呈示したかった「世界の終り」という状況なんだなぁ。なんの妥協もなく厳しい、そしてひっそりとした結末。とてもクールだと思うし、うまく言えないけど、なんだかゾクゾクした。

さて、人間にとって「心」とは何だろう?「心」とは約束されたものではない。心の動きが、裏目に出る可能性は大いにあるのだ。ある意味「賭け」に似た部分もあるかもしれない。ある人を好きになって、その愛にのめり込む様は、まさに「賭け」だろう。人はそれを「愚かだ」と言うかもしれない。でも、踏み込まなくては切り開かれないのも、人生である。「心」は、そのように「生き方」に直接関わるものだと思う。

「心」を捨てて、約束された平穏の中で淡々と暮らすのは、一面的にはユートピアに見えるが、実は「人生を味わう」という核心の部分が空洞化して、人生が形骸化していく。「完全」のメタファーである「高い煉瓦の壁」に囲われた人生というのは、例えば強固なレールに載った人生のようなものだ。約束されてはいるが、いかにも不自由である。あらゆる個性は抹消され、愛という不確定なものは不要になる。でも、そんな人生に何の意味がある?

最後にひとこと。スティーブ・ジョブズの有名な言葉「Stay hungry, stay foolish.」を思い出そう。これは、自分の「心」から湧き出る「欲」と「愚かさ」を大事にせよ、ということ。つまり「自分のありのままの心を大事にしなさい」と教えている。心を、決して捨ててはいけない。

以上、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の感想を二回にわたり記しました。