世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド/村上春樹作(1)

「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(村上春樹作)を再読した。最初は2000年頃だったか、当時はあまり面白いと思えず、四苦八苦して読んだ。読了して感じたのは「とりあえず読み終わった」という疲労感のみ。思えばあの頃は、読書リテラシーが全然不足していた。昨年1月から再読して、ようやく「面白い」と思えた。本作を読み解くにあたり、心理学をかじっておくことは必要だと思う。私としては2007年に苦労してフロイトを読んだことが大きい。

何でもそうだけど、やはり「面白い」と実感できるものでなければ、身につかないし、続かない。そして自分にとって何が「面白くて実のあるものか」という嗅覚は、ある意味運命でもあり、努力でもあろう。ともあれ本作を再読して、ラストの「村上文学の至高のクールさ」を味わえたのは、僥倖だったと思う。以下のふたつの軸で語ってみたい。

#1 ふたつの世界の交錯と収束

#2 村上さんの呈示する「世界の終り」



まず#1から。本作は、ある意味企画ものだ。「世界の終り」と「ハードボイルド・ワンダーランド」というふたつのストーリーが交互に進行する。まるちょうが一番感じるのは、各々の文体。再読して気づいたのだが、微妙に文体が異なっているように思う。極私的には「ハード~」の文体は、ボブ・ディランをイメージしていると思うのね。突飛な思いつきのようだが、まるちょうの直観はそう訴える。具体的には、ちょっと理屈っぽくて、やんちゃで、でも共感してしまう、みたいな。「ハード~」を読んでいると、どうしてもあのボブのだみ声が頭の片隅に響いているような気がしたんだけど。

それに対して「世界の終り」は、まさに村上さんの描く「世界の終り」の文体。それ以上でもそれ以下でもない。平静で、自己完結して、刺激的ではない。「ハード~」の文体の「トンがり」はどこにも見当たらない。でも、この「世界の終り」は、本作の思想的なコアを描いており、読み進むうちに、その核心が明らかになっていく。ラストに向かうにつれて、俄然惹き付けられる。

「ハード~」は村上さんが読者にサーヴィスした「冒険活劇」であり、その徹底したサーヴィスぶりが、村上さんの真骨頂だと思う。一番印象的なのは「私」が図書館のリファレンス係の女の子と過ごす「最後の晩餐」。この両者の食いっぷりが、すこぶる気持ちよい。ウエイターが心配になるくらい、イタリアン料理を食べまくる。そうそう、この「女の子」は、まるちょうの極私的イメージではアンジェラ・アキなんだけど、よくよく考えるとメガネかけてないのね。やられた(>_<) さて、彼女は哀しい想い出を持つ未亡人で、その自宅でしかと二人は結ばれる。冒頭のインポ事件を払拭するかのように。そして性交後に「ダニー・ボーイ」のレコードをかける。

この「ダニー・ボーイ」をめぐるシンクロニシティが、本作のクライマックスのひとつだろう。「世界の終り」で「僕」は、苦労しながら手風琴で「ダニー・ボーイ」を演奏する。そうして奇蹟が起こる。心を失ったはずの「図書館の彼女」の瞳から涙が流れるのだ。更に、図書館にある無数の一角獣の頭骨が、ほんのり輝きだす。この場面は、美しいとしか言いようがない。ほんと、ため息が出ちゃうよ。ここの「僕」の科白を引用してみる。

「あそこに君の心がある」と僕は言った。「君の心だけが浮きだして、あそこに光っているんだ」彼女は小さく肯いて、それから涙に濡れた目でじっと僕を見つめた。「僕は君の心を読むことができる。そしてそれをひとつにまとめることができる。君の心はもう失われたばらばらの断片じゃない。それはそこにあって、もう誰にもそれを奪いとることはできないんだ」僕はもう一度彼女の目に唇をつけた。

この「世界の終り」の直後の「ハード~」で、性交後ひと眠りした後に起こる、素敵なマジック。テーブルの上にある一角獣の頭骨が、ほんのり柔らかく輝きだす場面。このシンクロが、あらゆる論理を超えて、読者を癒す。とても温かい気持ちにさせてくれる。それから夜が明けて「私」がFM放送を聴きながら朝食を作り始め、彼女を起こして二人で親密な雰囲気で食事する流れも好き。そして「私」は最後に彼女を抱きしめて、そのぬくもりを頭に刻み込む・・

本作の一番の味わいどころは、最初全く接点のなかったふたつのストーリーが、次第に交わり、見事に収束していくところ。思うんだけど、村上さんはこれ執筆するのに、相当なエネルギーを使っただろうなぁ。「骨身を惜しまない」とは、まさにこの作品のためにある言葉だ。村上作品全般に言えることだけど、まず手抜きが無い。その時点で、出来る限りの仕事を尽くす。やはりこれが、村上人気の根本じゃないだろうか。とりあえず、今回はここまで。次回は#2について語ります。