罪と罰(3)/ドストエフスキー作

引き続き「罪と罰」から、今回は#3の「聖なる娼婦ソーニャ」と題して書いてみたい。ソーニャは、まるちょう42歳にして、ようやく自分の中で位置づけできたキャラ。「聖なる娼婦」という形容は、説明がいるだろう。ソーニャはろくでなしマルメラードフの実の娘。マルメラードフは後妻として肺病持ちのカチェリーナを迎える。カチェリーナもたくさんの子持ち。マルメラードフは働かず飲んでばかりだから、結局生活は極貧である。ソーニャはそうした「生き地獄」の中で、聖書に計り知れない希望を見出していた。聖書はそれこそ、彼女の「生きていくための支柱」だった。聖書を何度も何度も読み込み「神の存在」を信じていた。というか、そうでもしなければ生きていけなかったのだ。それほど、貧困は厳しかった。

極貧ゆえに、とうとう自分の体を売って、家計の足しにしてしまう。マルメラードフが酒場でとうとうと語るその辺の情景は、心が痛む。自虐的に語るマルメラードフに、憤りを感じるのは私だけではないだろう。ほんま、ろくでなしマルメラードフ。この人は「人間の弱さ」を絵に描いたようなキャラだ。汚物を連想しちゃうけど、でも、その臭いはやはり「人間臭さ」なんだね。ドスト氏は、マルメラードフをそのように上手に描いている。

さて、ソーニャである。要するに「神を信じる」立場の人間が、自分を穢してしまう。これって、ある種自己否定ですよね? 自分のアイデンティティを大いに揺るがす事態である。「このまま生きていていいのか?」という疑念がわき起こるだろう。実際、ソーニャは何度も自殺を考えた。しかし、カチェリーナや幼い異母兄弟たちを残して、勝手に死ぬわけにもいかない。「聖なる娼婦」という言葉は、ソーニャのそうした極めて深い苦悩を表しているのだ。

ここで、ソーニャの容貌について記された箇所を引用してみる。

痩せがたの、というより、ひどく痩せこけた青白い小さな顔は、あまり整ってはいず、妙にぎすぎすととがった感じだった。鼻も顎も、小さくとがっていた。とても美人とはいえない顔だった。そのかわり彼女の空色の目は実に美しく澄んでいて、それが生気をおびると、顔の表情が実にやさしく無邪気になって、思わず見とれずにいられないほどだった。彼女の顔つきには、というより、彼女の容姿全体には、そのほかにもうひとつ、きわだった特徴があった。十八歳だというのに、彼女は年よりもずっと若く、まだほんの少女のように、いや、ほとんど子どものように見え、それが何かの動作のはしばしに滑稽なくらい顔を出すのである。

ソーニャがラスコーリニコフに促されて「ラザロの復活」を朗読するくだりは、圧巻である。「イエスはマルタに言われた、『私は復活であり、命である。私を信じる者は、たとい死すとも生き返る。また、生きて、私を信じる者は、永遠に死ぬことがない。あなたはこれを信じるか』」このあたりを朗読するソーニャは、明らかに興奮して、文中の表現を借りると「本当の、ほんものの熱病にかかったように、全身をわなわなとふるわせている」とある。彼女は、真っ暗闇の地獄の中で、この「復活」を信じていたんだね。というか、信じずには生き続けることは不可能だったのだ。厳しい現実に、心をずたずたに切り裂かれながら、聖書を心の糧として、慎ましく生きてきたのだ。

ラスコーリニコフはユロージヴァヤ(聖痴愚)と内心、揶揄するけど、それは彼の性根が曲がっているだけである。まるちょうはこのソーニャを、なんて忍耐力のある、善の心の持ち主なんだろうと感嘆するのだ。でも、そんな彼女が淫売をした。一線を越えたのだ。ラスコーリニコフは、この「一線を越える」という部分を、自分の犯罪と同一視して、ソーニャにこう言うのだ。「いっしょに行こう・・ぼくはきみのところへ来たんだ。ふたりとも呪われた同士だ。だからいっしょに行こうじゃないか!」と。そうして、後に彼女に自分の犯罪を打ち明ける。その時の彼女の反応は、凄まじい。引用してみる。

「お立ちなさい!(彼女は彼の肩をつかんだ。彼はほとんど呆気にとられて彼女を見つめながら、体を起こした) いますぐ、すぐに行って、十字路に立つんです、おじぎをして、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから四方を向いて、全世界におじぎをなさい。そしてみなに聞こえるように、「私は人を殺しました!」と言うんです。そうしたら神さまが、あなたにまた生命を授けてくださる。行くわね? 行くわね?」彼女は、発作でも起きたように全身をふるわせ、彼の両手を取って、それを自分の手のなかにかたくにぎりしめ、燃えるような目で彼を見つめながら、こう問いかけた。

ラスコーリニコフが警察に自首する場面でも、ソーニャは彼から50歩ほど離れたところから、しかと彼の行動を「監視」している。「監視」というと、ちょっときついか。作中の言葉では「彼の悲しみの行路にずっと付きそってきたわけだ!」ということになる。ラスコーリニコフが「自首という敗北」から逃れようとしても、ソーニャの「全身全霊をかけた監視」は続く。

死人のように真青な顔をしたソーニャが立っていて、無気味なばかりけわしい視線を彼に注いでいた。彼はその前に立ちどまった。何か痛ましい苦痛にあふれたもの、何か必死なものが、彼女の顔にあらわれた。彼女は絶望のしぐさで両手を打ちあわせた。彼の口もとに、形にならない、途方にくれたような微笑がうかんだ。彼はしばらくその場につっ立っていたが、やがて苦笑をもらし、後ろを向いて、ふたたび警察署にあがって行った。

ソーニャは「正義の人」だ。そして、ラスコーリニコフを心から愛している。愛しているからこそ、うそ偽りを捨てさせ、贖罪を「法的な面」と「心的な面」の両方から助けようとする。ソーニャがいたからこそ、ラスコーリニコフは「真人間」として生き返ることができたし、逆に彼がいたからこそ、彼女も生きる希望を見出せた。シベリアで「愛するベクトル」は、次第に成長していく。エピローグのラストは、ほんと読んでて目頭が熱くなる。

ソーニャについては長くなったけど、こんなん全然中途半端。ドスト氏に申し訳ないです。Blogの限界だろう。次はいよいよ#4に取りかかります。困難じゃ~(笑)