2日の当直で感じたこと(2)

前回に引き続き、2日の当直業務で感じたこと。今回は「ナースの視点、まるちょうの視点」と題して書いてみます。89歳の男性に挿管してレスピレータにのっけたところまで話した。その時の私は、あまりの忙しさと状況の緊急度で頭が混乱していた。ところで、12月24日に「新聞記事『射水 医師不起訴』について」というお題でBlog書いている(→こちら)。抜粋すると次のような感じ。

さて、そうすると「治る見込みのない患者を、どこまで治療すればよいか」という難題にぶつかる。医師は、どこかで「線」を引かざるを得ないんじゃないか?(中略)もちろん「延命」という医療行為については、症例毎に抱える事情が違うし、十把一からげに言うことは出来ない。ただ、上記のような死生観、宗教観、倫理観というのは、変えていく必要があるんじゃないかと思うのね。人生の尊厳は単純な長さにあるのでなく、あくまでも「質」にあるのだと考えたい。本人さんにとっても、家族にとっても。

こうした記事を書いた直後だったので、89歳の老人に心マして挿管して、レスピレータにつなげるという行為が、果たして正しいのかどうか、自分の中で整理できていなかった。その時の自分の正直な心情をひとことで表現すると「罪悪感」である。事後承諾でこうなっちゃって、その後また「無意味に生きる」老人が増える。そんな幻想を自分の中で抱いていた。


そして、家族への病状説明。家族は四人。キーパーソンは実の息子さん。注意深く言葉を選びながら、現状の説明をする。とても重苦しい雰囲気。私の言葉に対する反応が乏しい。みなさん沈痛な面持ちで、うつむくばかり。私は「急変があったとはいえ、こうして気管にチューブを入れられて、やはり違和感とか不快感はありますか?」と尋ねてみた。しかし意外にも息子さんは「それはないです」との返事。その時「あれ、自分の感覚がおかしいのかな?」という気持ちが芽生えてきた。そして「今後また急変、たとえば心停止などあった場合、どういう対応を希望されますか?」との質問にも、だんまり。息子さんは、絞り出すように「今はなんとも言えません」と。可能なら、そういったこともご家族の間で話し合っておいて下さい、と伝えるにとどまる。父の死が、まだ十分に受容できていないと感じた。

病状説明しても、あまり反応なし。ご家族のみなさんが、どう考えておられるか、今ひとつ掴めない。両者沈黙の中、息子さんが「部屋に入ってもいいですか?」とおっしゃる。集中治療棟のナースに確認すると、もう入れるとのこと。とりあえず、そこで私はご家族といったん別れて、救急外来の残りの仕事を片付けに走る。救急外来では21歳女性のウイルス性髄膜炎疑いの患者さんが待っていた。

そうして、外来での仕事を片付けて午前3時半頃、集中治療棟へ戻り、その例の89歳の患者さんの容態を確認するために部屋に入った。そこでまるちょうは、大いに驚いたのだ。そこには、なんというか、すごい「幸福感」が漂っていた。家族四人が満ち足りた雰囲気で、89歳のおじいさんの手やおでこや足をさすっていた。本当にニコニコしながら。そこでまるちょうは、自分の考えが全く見当はずれだったことを思い知らされた。要するに、ご家族はお父さんと離れたくなかったのね。それほど、この89歳のおじいさんは家族に愛されていたのだ。息子さんは、私に深々と礼をされた。その頃には、呼吸循環動態は安定し、とりあえずの峠は越えたようだった。

総括。挿管する場面で、あえて挿管せず、酸素吸入だけで家族の到着を待つ選択肢は無いではなかったと思う。そして、到着を待って、自発呼吸が止まり心停止を確認して、臨終の確認をする。そうしたやり方も、あの時の自分なら「あり」としていたはず。しかし、そうすれば、ご家族の悲嘆はいかばかりだっただろう。そして、医療側に対する不満も、相当に生じたことだろう。何といっても、ご家族は父の死を受容できていないのだ。

今冷静に考えてみると、89歳の男性は良性疾患であり、そこからの急変だから、あの場面での心肺蘇生は、全く妥当だったのだ。あるいは、ナースはちゃんと本人さんとご家族の関係を見据えて、挿管の判断をされたのかもしれない。あれだけ家族に愛される89歳のおじいさんというのも、今時珍しいかもしれない。ちょっと「特別なもの」を感じてしまう。そうした「ちょっとない親子関係」をちゃんと見据えて、急変時の判断をされたナースに、脱帽である。そして、あの集中治療棟でのご家族の満面の笑顔を見たとき、急変時にちょっと違和感を感じながらも、流れに乗ってよかったと安堵した。ホントに「延命治療」とは言っても、ケースバイケース。本症例は、千金の値がある「延命」である。各々の症例で、丁寧な吟味が必要なんだなと考えさせられたのでした。

以上、長くなりましたが「2日の当直で感じたこと」を二回にわたり語りました。