新聞記事「射水 医師不起訴」について

イヴの夜なんですが・・ 全然関係ないネタでBlog書きます。イヴの情景は横のツイッター・パーツでご覧下さい。さて、まるちょうは社会派のネタでBlogを書くのは得意ではない。ただ「射水 医師不起訴」という新聞記事の見出しは看過できないものを感じたので、ちょっと書いてみる。この記事は、富山・射水市民病院の延命中止問題で、富山地検が殺人容疑で書類送検された医師二人を不起訴にしたという内容のもの。この医師の独断による「消極的安楽死」問題について、06年当時のBlogはこちらを参照のこと。抜粋すると、当時私はこう語っている。

他の安楽死や延命措置中止の是非が問われたケースでは、今のところ実刑はないようだ。このケースでも、おそらく重くても執行猶予付きの有罪だろう。一番のポイントは、家族との意思疎通だろうな。家族がちゃんと納得できれば、不起訴になる可能性も大いにある。



本件の中心人物は射水市民病院元外科部長の伊藤雅之医師(54)。この人が検察側に主張したのは「患者の家族と合意があった。『事件』という性質のものではない」ということ。要するに、伊藤医師は「患者とその家族ために一肌脱いだ」だけなんだよね。問題なのは、そのへんの家族との合意を文書化して残していなかったこと。そして、他のスタッフとの共同体制がなかったこと。いわゆる「悪意」というものは、全くなかった。検察側は、その辺の事情を十分に酌量したわけだ。警察は、相当にタフに伊藤医師に事情聴取して立件に意欲的だったようだけど。

でも、考えてほしい。呼吸器を外すことにより、患者とその家族は大いに救われたと思うんだよね。伊藤医師の心にあったものは、むしろ「行き過ぎた善意」である。凡庸な医師は、治る見込みもなく、人間としての尊厳もなく、ただ惰性的に人工呼吸器につながれる患者を、見て見ぬふりをする。あるいは、そこで必要な問題意識を、むりやり無意識下へ抑圧している。しかし、伊藤医師は、その問題意識をしかと実行に移した。まるちょうは、この実践を「尊い」と表現してしまおう。もちろん方法論に問題はあるものの、「見て見ぬ振りの保身」よりは、ずっとましだと思うから。

さて、そうすると「治る見込みのない患者を、どこまで治療すればよいか」という難題にぶつかる。医師は、どこかで「線」を引かざるを得ないんじゃないか? この問題を考えると、いつも研修医時代にバイトしていた老人病院を想い出す。元気になる見込みもなく、みな高齢で、程度の差はあれ認知障害あり、人間の尊厳もなく、惰性的に生きさせられている老人たち。「生きさせられている」というのは、現場を見れば実感できるだろう。38度以上の熱が出ると、何処からともなく院長先生が姿を現して、高価な「γ-グロブリン製剤」の処方を次々とカルテに記入していく。この場合「患者の発熱」は、口実に過ぎない。要するに、美味しい診療報酬をむしり取る行為である。今になると、あの光景の位置づけが自分の中でできる。彼らにとって「意味なく生きる」老人たちは、紛れもなく「金づる」だったのだ。そうして、こうした行為の積み重ねで、医療費はどんどんかさんでくることとなる。

さて、今月号の日経メディカルに、興味深い記事が載っていたので紹介する。

北欧諸国では、介護度の高い寝たきり高齢者は非常に少ないという話を聞く。これは豊富な税収による手厚い社会的サポートのなせる業だとみられがちだが、そうではない。かの地では、本人に意識がない摂食障害の高齢者に対して、PEG(胃瘻栄養)や経鼻栄養はおろか、介助者がスプーンで食事を口に運ぶといった行為でさえ人権侵害に当たるという社会的コンセンサスがある。そのため、例えば高度認知症から摂食障害となった場合も、特別な医療行為は施されず、周囲に見守られながら1週間程度で息を引き取るのが当たり前なのだそうである。

もちろん「延命」という医療行為については、症例毎に抱える事情が違うし、十把一からげに言うことは出来ない。ただ、上記のような死生観、宗教観、倫理観というのは、変えていく必要があるんじゃないかと思うのね。人生の尊厳は単純な長さにあるのでなく、あくまでも「質」にあるのだと考えたい。本人さんにとっても、家族にとっても。延命を打ち切るという消極的安楽死という行為は、医療の現場では決して特殊な例ではなく、至る所で起きており、悩んでいる医師や看護師は多いのだ。まるちょうとしては、上記の北欧諸国のような社会的コンセンサスが築ければ、一番健全だと思うのですが・・ でも現実には難しいね。うーん。

以上、長くなりましたが「射水 医師不起訴」という新聞記事について語ってみました。