精神分析入門(3)/フロイト

引き続き「精神分析入門」から、今回は「心的人格の分解」というお題で語ってみる。図は、フロイトが当時描いた「心的人格の構造関係」です。この図はひとつ重大な修正点があって、無意識的なエスが占めている空間は、自我や前意識が占める空間とは比較にならないくらい広大であること。エス(es)については、4/22のBlogでかなりネガティブに記述したけど、これって要するにリビドーの源泉なわけです。つまり、エスはリビドーの邪悪さも持つが、他方で根源的な生命力を放出し続ける場所でもあるのです。「無秩序なベクトルのるつぼ」という表現も可能かもしれない。それを整理して集約させるのが自我の役目というわけ。

さて心的人格は、図のようにいくつかの構成要素に分解されるわけだが、今回は超自我(super ego 上位自我とも訳せる)に絞って話してみたい。これ、かなり興味深い話になると思うので。この超自我だけど、このようにすると考え易いかもしれない。もう一人の自分が、自分自身を見つめている、そんなことを感じる時ってないですか? 超自我とは、まさにそのような自我の客体的側面を持った心的装置の一部。役割はみっつあって、自己観察と良心、そして理想機能。以下、少し解釈を付け加える。


フロイトは超自我を、まずは「自我における法廷」として表現している。自我の行った判断、行為を法廷にかけて裁く。そして懲罰を加える。この一連のメカニズムが一番顕著に現れるのが「うつ病」である。以下のようにフロイトは述べている。

うつ病患者は健康時には他人と同じように自己に対して示す厳しさもほどほどなのに、うつ病発作中には超自我が極度に厳格になって、あわれな自我を罵り、卑しめ、虐待し、自我に極めて重い刑罰を予想させ、今はもう遠い昔のこととなった、そしてその当時は平気で見過ごされたいろいろの行為を引っ張り出してきて自我を非難するのです。

要するにこの場合に超自我が機能しているのは「良心」として。フロイトは「道徳の権化」という表現も用いている。

まるちょうの思うに、世の中には良心の篤い正義感にあふれた人がいると思えば、良心の薄い道徳とは縁のない人もいる。その差ってなんで生じるのか? それは結局「超自我がどのようにその人の心の中で形成されてきたか」によるわけ。

まずは「両親の存在」が最初にある。両親は愛の表示による許容と罰による威嚇により子供を支配する。この「両親の権威」は、のちの内的な超自我へと引き継がれる。しかし、である。フロイトはこう記述している。

両親がほんとうにきびしく躾けたのでしたら、子供のほうにも厳しい超自我が成立するということは充分に納得が行くことのように思われますが、しかし経験の示すところによれば、われわれの予想に反して、たとい教育が甘くて寛大で、嚇かしや罰をできるだけ避けた場合でも、なおかつ超自我は同一の、一歩も仮借しない厳格な性格を身につけるのです。

これ以上突っ込んだ話になると、やや難解なので割愛。ただ「道徳の教育」というものが、学校の授業で学べるほど簡単で一律ではないことは確かと言えそうだ。

超自我の理想機能についてひとこと。フロイト曰く

超自我は自我理想の担い手でもあって、自我は自我理想に照らして自己を測り、これを模倣しようとし、いよいよますます完全なものになれという自我理想の要求を満たそうと努力します。この自我理想が昔の両親像の名残であり、子供が当時両親から感じ取ったあの完全性に対する驚嘆の念の表現であることに疑いはありません。

つまり、超自我が自我を正しい方向へ引っ張っていこうとするのね。そういう意味で、現在の私とダイゴの超自我は、紛れもなく「お蝶夫人♪」なのです(笑)。監視とか懲罰とか、そいういう悪い意味でなくね。彼女は確かに「我が家の良心」として機能している。それは、お蝶夫人♪を「お手本にしよう」という同一化の姿勢があるから、更に突っ込んで言うと、それこそが「妻を愛している」という印でもあるわけです(笑)。最後は予期せぬおのろけになってしまいました。すいません。m(_ _)m 最終回は「 その他興味深いこと」と題して、テレパシーなどについて語るつもりです。