自分の中にあるノモンハン

村上さんのQ&A」のコーナー! 今回も「そうだ、村上さんに聞いてみよう」から、質疑応答を抜粋して考察してみる。

<質問>「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」を読みました。その中でひとつ、よくわからない箇所がありました。「でも、一つひとつ考えていくと、真珠湾だろうがノモンハンだろうが、いろんなそういうものは自分の中にあるんだ、ということがだんだんわかってくるのですよね」という部分です。「自分の中にある」というのは、どういうことなのでしょう?(25歳、好きな言葉=厄よさらば) 


<村上さんの回答>説明はとても難しいのですが、なんとか説明してみます。「ねじまき鳥クロニクル」を書くときに、ノモンハン戦争についてずいぶん多くの本を読んでいて、「これは決して過去の歴史じゃないんだ」と実感したのです。というよりは、そこにあるいろんな矛盾や、圧倒的な暴力や、システムの愚劣さや、魂の暗闇や、あるいはまたそこですりつぶされていった名もなき人々の勇気や高潔さのようなものは、ほとんど変わることなく今も我々のまわりに継続的に存在し続けている(つまり解決されていない)んじゃないかと。そしてそのようないわば宿命的な連続性を自分の中に認識しない限り、またどこかで同じようなことが、表面的なかたちを変えただけで、起こりうるのではないかと思うのです。

<まるちょうの考察>まるちょうは今、ようやくフロイトを読み終わろうとしています。心理学の中で「es」という概念がある。心的構造における「無意識」に対応する部分。ここに、生涯抑圧し続けてきたあらゆる欲動が漂っている。とても暗くて無秩序で時間観念がなく、道徳も論理もないところ。要するに、ドロドロした性欲とか、暴力の欲望、正視できないようなトラウマ、そんなこんながどっさり詰まっているところなんですね。村上さんの言う「圧倒的な負のベクトル」を持った諸々の事象は、この「es」が根本にあるとまるちょうは考えるわけ。

戦争における暴力の根源とは、決して「新たに産み出された憎悪」などではなく、人間の心の中にもともとある暴力性が顕在化したものであるという認識。言い換えると、阿鼻叫喚の地獄は、すでに人間の心の中に存在するわけだ。

村上さんは、上記の危惧を「システムと個人」という対立の中で語っている。システムというのは、規模が大きくなればなるほど、狂った時の傷が大きくなる。例えば、システムのトップが「暴力を積極的に肯定する」と指示を出してしまうと、そのシステムの下にいる人々の「es」は容易に活性化して、次々と残虐な振る舞いをするようになる。自分より弱いものをなぶり殺しにして、切り刻む。近年では、例のオウム教事件なんかが相当するだろう。

村上さんの言う「宿命的な連続性を自分の中に認識する」という行為は、つまり自分の中の「es」を意識化することだ。 私たちは「es」を整理して自我(=ego)へと組織化していかなければならない。因みに、フロイトはその作業を「海の干拓」に例えた。具体的に言うと、新聞の三面記事に載る得体の知れないような事件を、「対岸の火事」としてやり過ごすのではなく「自分ならどうか?」と常に自問する姿勢が大事だろう。そうして、何らかの「気づき」があれば、もうけものなんだと思う。

以上、やや難解になりましたが、村上さんのQ&Aのコーナーでした。