精神分析入門(2)/フロイト

前回に引き続き「精神分析入門」から。今回は#2の「リビドーにおける善悪」について考えてみたいと思う。まず初めに「リビドー(libido)」とは何ぞや? 日本語に訳すと「性的欲動」ということになる。俗にいう「性欲」「性衝動」をイメージすれば近いかと思う。厳密には、もう少し広い意味合いになるんだけど。

さて、まるちょうはこの書物を読むまで「善いリビドー」と「悪いリビドー」があると想定していた。これフロイト先生が聞いたら、呆れ返るだろうな。もちろん「善いリビドー」は、妻あるいはステディーな彼女を愛するリビドー。「悪いリビドー」は、つまり浮気をするリビドー。まるちょうは、もし「悪いリビドー」が存在するなら、そいつを退治すればええやん、みたいな軽い気持ちで読んでいた。しかし読み進めるうちに、一筋縄では行かない複雑な真実が明らかになった。


要するにリビドーというのは「邪悪」なんですね、これが。「善良なリビドー」なんてあり得ない。フロイトの言葉を借りると「倒錯的で性悪で放埒」という表現になる。「浮気」は紛れもなくリビドーにより行われる。仮にリビドーをなすがままにしたら、「倫理」という概念は崩壊するだろう。浮気どころか、近親相姦やその他生殖目的以外のあらゆる性愛を許すことになる。例えば、妻を愛するのも確かにリビドーによるわけだけど、リビドー本来の対象はもっと広いということになる。では、リビドーを限定しうるものとは何か? それは結局自我の教育、発達によるといえる。

フロイトによると、我々の心的活動はまずは快感原則に基づいている。誰しも気持ちよいことをしたい。しかし、快不快の対極には「必然性」という教育者が存在する。少し限定して「社会性」と表現してもいいだろう。自我はそうした教育者の下で、直接的な満足を断念したり、快感の獲得を先に延ばしたり、一部の不快感に耐えたり、あるいは一定の快感の源泉を完全に放棄することまで学ぶわけである。これを「快感原則ではなく現実原則に従う、分別の付いた自我」と表現することができる。つまり、じゃじゃ馬リビドーを乗りこなすためには、コツコツとした積み重ねによる自我の発達が不可欠なのです。堅牢な自我がリビドーをコントロールするという模範的な構図が浮かぶ。旦那が嫁を大事にするというのは、紛れもなくこうした心的構図から発生する姿勢なのです。

さて、リビドーに関して重要な補足。リビドーは単なる悪者ではない。ユングは「すべての本能のエネルギーの本体」とやや拡大して解釈している。要するに、根源的な生命力、向上心、愛情なども含まれているわけ。だから、リビドーのない人生なんて糞食らえである。フロイトも「世界の現実、すなわちアナンケー(運命・必然)に従属させられることに反抗するのがリビドーの性格的特色」であると記述している。困難な運命に立ち向かうという姿勢は、紛れもなくリビドーの旺盛な力動によるのだ。

反面、リビドーが余った状態が持続するのは、精神的にも社会的にも好ましくない。余剰のリビドーをうまく消費することが肝要。理想的なのは、性的なものから引き離して昇華の目標へ向かうこと。創造的な行為にリビドーが転用されて、もし社会的な価値のある業績が残せれば、申し分ないだろう。

ややタイトルから逸脱しました。とりあえず第二回はこの辺でおしまい。次回は「 心的人格の分解」で語ります。