「妻をめとらば/柳沢きみお 作」を読んで(1)

漫画でBlogのコーナーなんですが、今回は趣向を変えてみます。本作は、学生時代に愛読していた。当時は単純に面白おかしく読んでいたんだけど、アラフィフで再読すると、作者の「結婚に対する独特の見識」を垣間みる気がした。ただし、あくまでも「男性から見た結婚という生活形態」ということになるか。まずはざっとあらすじなど(Wikiより引用)。

西北大学を卒業して大手証券会社に就職した主人公の高根沢八一は、大学の寮歌の一節に影響を受け、最高の女性を見つけて結婚することを夢見て社会人人生をスタートさせる。同僚やホステス、結婚相談所で知り合った女性など、八一は最終的に10人以上に及ぶさまざまなタイプの女性と付き合うことになるが、その優柔不断な態度によってことごとく破局する。そんな迷走をしているうち、残業の多い不規則な生活によって身も心もボロボロになっていく。


#1 90年代型人間に対する作者の感情
#2 結婚という生活形態について考える

今回は#1について。ひとつ大きなネタバレをすると、八一という名前には「9×9=81」☞「苦×苦=八一」という作者の構想があるのです。そう、八一は苦しみしか与えられない。付き合う女性は、みな通り過ぎていくばかりで、結婚には至らない。それは彼自身に問題がある場合もあり、あるいは別の問題があったり。作者は八一に「結婚という安住の地」を決して与えない。彼は苦しみの渦の中で悶えながら、シニカルなラストを迎える。学生のころは、なんでこんなにひどい終わり方にするんだろう?と不思議でしたが。

今なら分かる。柳沢きみおの「90年代型人間」への嫌悪、侮蔑、怨念を。バブルという独特の季節。幻想のような軽さ、ノリ、欲望、倫理観の欠如。そうした「空気感」を、八一は背負わされている。そうしてまさに「バブルがはじけるように」破滅していく。そう、中身のないものは、所詮残れないのである。これが柳沢きみおの主張だ。それだけ人生は厳しいし、ある意味で戦場なのである。「90年代型人間」が、その人生の黒くて厚い壁にぶち当たったとき、いかに彼は無力であるか。なんたって彼はバブルの申し子なんだから。

でもでも、僕は八一の「妻をめとらば 才たけて みめ美わしく 情あり」という、若者ならではの単純さ、浅さ、唐変木をかばおうと思う。彼が大学を卒業したとき、年齢は24歳なのだ。彼に罪はない、単にナイーヴだっただけだ。彼の中には「女の中の不条理」とか「社会の構造の裏側」とか、そんな深さは微塵もない。女であれ、仕事であれ、ある意味で「戦い」なんですよね。やわな楽観論で切り抜けられる世界ではない。柳沢さんの八一への辛辣さは、まさにバブル世代の甘さに対する侮蔑だと思う。

八一は結局、10人以上の女性にことごとくフラれて、破滅する。何がいけなかったのか? 女という生き物は、社会という「戦い」の中で、いち早く「懐疑論」を身につける。それは身体的には月経という理不尽によって「武装」するわけだ。例えば「世界は一家、人類は皆兄弟」という喧伝を、男の子はぼんやりと肯定するが、女の子は「あんなのプロパガンダよ」とクールに受け流す。その性差があるからこそ、八一は丸腰ではいけなかった。「妻をめとらば 才たけて みめ美わしく 情あり」などという曖昧さではなく、具体的な「戦略」が必要だった。そして柳沢さんは「90年代とは戦略が欠如した時代だった」と言いたかったんじゃないかな。

次回、本作の核心である「結婚という生活形態について」考えたいと思います。