さて、23日の朝食の話に戻る。父が「ヨーグルトいるか?」というので、「いただくわ」と返す。父が冷蔵庫の扉を閉めようとした時、扉が父の左おでこにぶつかった。よく見ると、父の左眉の外側が1cmくらい皮膚がぱっくり割れて、出血していた。ティッシュで圧迫して、その場はなんとか止血できた。でも、こういうミスは、普段の父ならしないはず。かなり緊張しているか。
午前9時ごろにJR向日町駅へ。たぶん、JRの駅に行くのも、2021年の脳出血後は初めてじゃないかな? 向日町から京都へ向かう車中で「メガネを忘れたかもしれん」と父が言う。そこから父の神経症が止まらなくなる。メガネはどうしても要るものではないと言うが、そこに不安感がロック・オンされると、動揺が止まらない。なんとか昼食用の駅弁を買って、嵯峨野線31番乗り場の待合までたどり着く。なんとか椅子を確保するが、父は旅行カバンをあさり始める。「ない、ない!」 僕はできるだけ刺激しないように見守っていたが、例の「左眉の外側」からタラーっと流血し始めた。僕は間一髪、自分のマスクで傷口を押さえる。完全なるパニックである。おそらく、血圧が上がっていると思われた。「お父さん、大きく呼吸して、そうそう、楽にして」と支持的に対応。左眉の外側からの出血は、なかなか止まらない。父がようやくメガネをあきらめた頃、上着の左ポケットに「何か」ある、と。僕がその左ポケットを調べると、複雑な構造になっており、奥の方からメガネケースが現れた。「これか!」僕は、安堵した。「あってよかったな。大丈夫」と父と微笑み合う。その頃には、例の流血は止まっていた。
12時すぎ、東舞鶴駅着。父の生家へは、父自身が連絡をとっていた。父によると、12時すぎに姪にあたる女性(つまり僕のいとこ)とその娘さん(過去にクイーン舞鶴になったことあり)が車で迎えに来ることになっていた。駅から出て南北のロータリーをくまなく探すも、それらしき車なし。とりあえず、駅から徒歩1分の「ホテル アルスタイン(宿泊予定)」に、大きな荷物を預けることにする。そのフロント前から、父が生家に電話してみる。姪のK子さんと話す父。
「ああKちゃん、今、ホルスタインにおるんや!」
なんでこの急場に、そんなに器用にボケるの? 父は一生懸命である。僕はあえて突っ込まなかったが「大したもんやな〜」と思っていた。電話の内容としては、K子さんは、東舞鶴駅まで僕たちを迎えに行くという話は聞いていなかったとのこと。父は困った風に話し、ちょっとした交渉の結果、K子さんとその娘さん(Tさん)が車で迎えに来ることになったらしい。これって、エチケットとしては「じゃあ、タクシーでそちらに向かいます」とすべきところ。土曜日の昼下がりの日常を、めっちゃ侵しているわけやし。まあ、父は耳が悪いから、事前に電話でK子さんと話したとき、話の行き違いがあったのだろう。20分後くらいに、迎えの車が来た。運転するのはTさん。車内では、主にK子さんと父が世間話みたいなことで、場を和らげていた。Tさんは一切しゃべらず。怒りのオーラが、ムンムン放射されていたように思う。父の生家に到着。僕はたぶん、結婚して以来(2003年)だな。20年ぶりくらいか。居間に通されて、しばし談笑。Tさんは、その場に姿なし。これは想像だけど、父の楽しみのひとつは、Tさんに逢うことだったと思う。運転代として、一万円をTさんへと、K子さんへ渡した。K子さんは強く辞退され、ちょっとした押し問答になったが、なんとか受け取ってもらった。父としても、なんらかの申し訳なさを感じていたかもしれない。
さあ、生まれた集落の撮影に行こうか。玄関で「ちょっとトイレ行ってくる」と、父が扉を開くと、そこはTさんの部屋だった。Tさんがハッとした感じで、立ち尽くしている。父はなにかのスイッチが入ったように「Tちゃん、Tちゃん」と部屋へ侵入していく。僕は「あかんあかん、ダメダメダメ!」と父の手を引っ張って、部屋から父を引き戻した。「すんません、すんません」僕は平謝りで、玄関へ戻る。93歳なのに、すごいリビドーやな。やはり長生きするには、こうした生々しさが必要なのだろうか。でもやっぱ、レディーの部屋へいきなり侵入はいかんよ、お父さん。
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父の生家の周囲をビデオカメラで撮影する。特に驚きもなく、淡々と撮影する。「懐かしいな〜」とか、そういう風でもない。雨が降ってきたので、生家に戻る。居間には、今度はTさんが同席していた。長老の叔母さん(96歳)が場をしめて、JR東舞鶴駅へ戻る。叔母さんは手押し車で少しずつ動かれる。穏やかな人で、いかにも賢者という雰囲気がある。帰りの車もTさんが運転してくれた。今度は、ちゃんとBGMを流していただいた。ちょっとだけ、打ち解けたかな?(笑)
11月24日の朝、荷物の整理をしていて、腰がグキっとなった。疲れたときに来る、ぎっくり腰。やはり、22日からずっと緊張した状態である。とうとう来たか、今から重い荷物かかえて京都まで移動せなあかんのに・・ やや怒りというか、投げやりな気持ちになった。やや言動が荒っぽい感じになったかもしれない。帰りのJRで、父はそうした僕の疲労をみて、慰めてくれた。そして特急まいづるの車内で父はこう言った。
「おまえが医学部に受かったとき、お父さんはとてもうれしかった。お父さんがちょうど勤務中に電話がかかってきて、おまえの合格を伝えられた。本当にうれしかった」
面と向かってこんなこと言われるのは、初めてだったので、ややドギマギしたが、父の表情はとても真面目だった。不器用な父の最期の言葉として、僕の心に深く刻まれた。
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繰り返しになるけど、あの舞鶴旅行が寿命を縮めた可能性は、大いにある。しかし、母が老人ホームに入所してからずっと、ふるさとを眺めて記録することが、父の切望だったのだ。一週間後に起こった心筋梗塞(急性弁膜症)は、ある意味で「寿命」だったと思う。タバコもやったし、高血圧もあった。そして93歳という超高齢。血管年齢的には、まさに「寿命」だった。しかし、その後の二ヶ月超の不本意な苦しみは、次男として、なにか申し訳なさを今も抱えている。2月9日の昼すぎ。出棺のとき、父のおでこにそっと触れて「よく頑張ったね」と伝えた。父の顔貌は、二ヶ月にわたる「実りのない消耗」で、疲れ果てて見えた。父はようやく「平和の庭」へ向かえるのだ。人生という「戦場」から離脱して、安らかに眠ってください、お父さん。優しくて、辛抱強くて、几帳面で、マイペースで、ちょっぴりエロい、お父さん。僕はお父さんの形質をしっかりと受け継いで、これからも生きていきます。ありがとう、そしてさようなら。