父との舞鶴ふたり旅→心筋梗塞。そして父は「平和の庭」へ向かう(1)

2025年2月6日4時51分、父は永遠の眠りにつきました。2024年11月29日に心筋梗塞を発症し、それから実に二ヶ月以上。結果論になるけど、父の希望した死に方ではなかった。父はもっと潔い死に方を望んでいた。ただ、そのことについて不満を言うのは、ぜんぜん意味がない。今は、父が安らかな死を迎えたことを、素直に受け止めたい。

哲学者の三木清が「人生論ノート」の中で、こんなことを言っている。

そして私はどんなに苦しんでいる病人にも死の瞬間には平和が来ることを目撃した。(中略)墓場をフリードホーフ(平和の庭)と呼ぶことが感覚的な実感をぴったり言い表していることを思うようになった。

父の最期の二ヶ月にわたる苦しみとようやく来た「平和」を想う。人生という「苦しみ」から解放されて、ようやく「平和の庭」へ落ち着くということ。あらためて想う、人生って、なんて「試練」が多いのだろう、と。神様がいたとしたら、父の最期に、なんという「試練」を与えたられたんだろう。こんな試練、きつすぎるよ、神様。

父が心筋梗塞を発症する一週間前に、僕は父と二人でふるさとの舞鶴を訪れていた。以下は、その小旅行についての文章です。今おもえば、93歳という超高齢で遠方に旅するのは、いかに息子が同伴するとしても、やや無理があった。おそらく血圧の上昇はあっただろうし、一週間後の心筋梗塞の遠因となったのは、ほぼ間違いないから。

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2024年の前半、父は地獄をみた。母の排泄の不調。老老介護の限界。母が老人ホームに入所したのが、6月9日。その日、父は開放感を感じていた。「ふるさとの舞鶴をもう一度みておきたい」と僕に語った。これから暑くなる頃。実際に、2024年は夏が長かった。高齢者には、きつい日々だったと思う。秋になれば、父の願いを叶えることができないか?と常々考えていた。そうして、11月22日から舞鶴に一泊二日のふたり旅を決行したのだった。

実際のところ、昨年6月9日にこの「父の夢」を聴いたときは、正直「何言ってんの?」と目を丸くしてしまった(もちろん傾聴はしたが)。あまりにも過酷な老老介護、本当に過酷だったのです。悲惨で汚くて、眠れなくて、イライラする。父は元来、穏やかな性格だけど、母に怒鳴ったことが何度もあったようだ。おそらく「ぼんやりした殺意」もあったかもしれない。でも我慢強い父は、こうした困難を切り抜けた。排泄がダメになった母をみて、父自身も「人生の終末」について、考えたと思う。93歳という高齢とおそらく近くにある「死」、そうして今、自分が何をしておくべきか? それが「ふるさと回帰」だったと思う。父は自分の人生がそう長くないことを、母の世話をしていて悟った。父は楽天的で精神的に若い人だったけど、さすがに母の世話をしていて「厳しい人生のリアル」について考えざるを得なかった。

ただ、6月9日ごろから、ずっと暑い日が続いた。当然のことながら、僕は、舞鶴行きについて半信半疑だったし、父の言動を観察していた。しかし、父の「ふるさと回帰」について、まったくブレることはなかった。8月ごろだったか、お父さんの弟さん(大津在住)を引き連れて舞鶴へ行こうとしたが、いかんせんその弟さんさえ90歳を過ぎているのだ。やんわりと断られたようだ(腰が悪いとのこと)。それから9月、10月前半とずっと暑くて、90代の人が旅行なんてとんでもない、という状況が続いた。

10月から個人的にやっておきたいことがあったので、それを終了してから、父のミッションを本腰いれて考えることにした。そうしてやってきた11月。気候的にも旅行に適した季節。僕は父に11月22日、23日、24日はどうか?と提案した。22日(金)は午前中、T診療所で外来業務。その日は実家に帰り、父と夕食を食べて一泊してから、23日(土)の朝、特急まいづるで舞鶴へ。23日は父の生家を訪れ、故郷の集落をビデオカメラで撮影(父は動画にこだわった)、その後、東舞鶴駅ちかくの親戚Oさんを訪れる。夕食後、よく休んで24日(日)の午前に、特急まいづるで京都へ。昼すぎには、京都着の予定。以上を印刷したものを父に渡して、了解を得た。

ただ、事務的なタスクはいろいろあった。ホテルとJRの予約、レンタルビデオカメラの予約、11月
23日の夜はちょっといい食事をしようとのことで、ネットで海鮮丼の有名な店を予約。最初、父は親族への土産はいらないと言い張った。「気を遣わしたくない」ということらしいが、よくよく聴いてみると、親族(二軒)は寄るつもりとのこと。それは、手ぶらではいかんでしょ〜、ということで、僕の奥さんに「たねや」のちゃんとした土産を用意してもらった。

そうして迎えた11月22日。外来業務を終えて、向日町の実家へ向かう。ちょこちょこしたトラブル(暖房を入れるつもりが、冷房を入れるとか)はあったが、なんとか一日が終わる。実家の風呂に入るのは、ホントに久しぶり。やはりいつもと違うベッドと枕なので、それほど熟睡はできない。そうして23日(土、勤労感謝の日)を迎える。父が朝食を作ってくれた。実は、22日から? 父はかなりそわそわしていた。軽い混乱というか。無理もない、もともとASDの傾向があり、89歳時の脳出血が大きな転機だった。家でルーチンをしっかり守ることは、なんとかできる。でも今回のように、新しいチャレンジに立ち向かうとなると、多分そうとうな緊張、不安があると思う。父のイメージする「昔の舞鶴」では、もうないのだ。JRの特急に乗るのも、ホテルに泊まるのも、すべて初めてであり、チャレンジなのだ。脳出血前には、わりとカジュアルにJR京都駅からビックカメラへ行ったりしていた。でも現在の父には、JR京都駅は「初めてくる人混みのひどい駅」なのだ。脳出血後の父にとっては、向日町の自宅でさえ「初めて来るような違和感」を感じていた。一種の記憶のリセットだろうか。だから、現在の父にとってJR京都駅は「砂ぼこりのような人混みに隠された迷路」のような不安な構造物だったと思う。(続く)