親族への手紙・・父の病状報告(2)

それから、父は精一杯頑張りました。12月1日(日)にECMO(人工心肺) 離脱。12月2日(月)にIMPELLA (心臓のポンプ機能補助)を抜去。12月4日(水)に人工呼吸器離脱。病院側のサポートも手厚いと思いましたが、父の「生き残ろうとする力」は並大抵ではないと思いました。ただ、腎機能が悪く、透析は回っている。この頃の父は、ある程度コミュニケーションは取れるものの、目の前の人間を識別できるほどではなかったと思います。ただ、リハビリを開始するときに、いきなり自力で立とうとして、理学療法士さんが驚いたというエピソードもあります。

K医大病院での「高度な医療行為」というフェーズは終わり、12月18日にK病院へ転院となりました。本来ならば、K病院で本格的なリハビリが開始される予定でした。しかしK病院で待っていたのは「せん妄」という状況でした。具体的には、大声を出したり、壁を叩いたりといった「迷惑行為」が生じます。父は2021年の脳出血後、軽度の認知障害はあったと思います。そして93歳という超高齢、いきなりの長期入院という突然の環境変化、そういったものが「せん妄」という状況を作り出していたかと思います。私の個人的な想像としては、父がそうした「迷惑行為」をしたとき、父の脳裏には「俺の自由を返せ!」という言葉があったのでは?と思います。

ただ、せん妄状態となっては、リハビリは進まず、経口摂取も増えず、ジリジリと筋肉が減っていく経過となりました。そして、問題行動は減っていきましたが、腎機能は相変わらず悪く、食べられず、いわゆる「ジリ貧」という状況となります。そうして1月10日に、主治医から病状説明あり、K病院での治療の終了と京都市内の老人病院への転院を打診されました。簡単に言うと「これ以上の治療は本人にとって意味がなく、すでに看取りの段階に入っている」ということです。私自身、父の衰弱し、小さく細くなった体、茫漠とした眼、もうろうとした意識をみていたら、本当に「申し訳ない」という気持ちでした。こんな状態は、とうてい父が望んでいた最期ではありません。誰が悪かった、というわけでもない。でも、現実問題として、主治医のおっしゃる通り「静かに看取る」段階に入っていると感じました。「せん妄」は元に戻りうる病態ですが、父の場合、すでに後戻りできない「認知障害の進行」があると思いました。40日間、自分の意図したわけでもない入院を強いられた場合、93歳の父は、それは認知症進行もするでしょう。おそらく誰でもそうなります。

そうして、1月23日にSS病院に転院となりました。2020年に全面的なリフォームを実施され、清潔で明るい印象を持ちました。また院長先生と面会し、非常に丁寧な聞き取りをされ、信頼できる病院と感じました。父はここで最期の日々を静かに送ります。そうして、できるだけ自然に看取りをしたいと思います。

さて、最後にみなさまにお伝えしたいこと。
以下は、父が元気だったころの希望です。
①父はできるだけ親族や知人の方に、負担をかけたくないと申していました。
②香典やその他、父へのお気遣いは、いっさい辞退させていただきます。
③葬式はできるだけ質素で小規模に。家族葬を希望。

父がよく話していたのは「葬儀には親族や知人は呼ばず、葬儀が終わってから連絡する」というものでした。その方が親族や知人の方のご負担が小さいからです。親族の方はご高齢であったり、舞鶴という遠方にお住まいだったり、葬儀の場所へアクセスするのが大変と思われます。

小生の電話番号を記しておきます。
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何かわからないことがあれば、電話ください。
長文となり、申し訳ありません。
敬具