(再掲)ローマの休日/ウイリアム・ワイラー 監督

「ローマの休日」(ウイリアム・ワイラー監督)を観た。おそらくちゃんと観るのは、小学生六年生の時以来だと思う。あの少年時代の一番の印象は、ラストシーンのグレゴリー・ペックが一人歩いていくところ。「恋愛って、なんて切なくてしんどくて苦しいものなんだろう?」と。子供心に、みぞおちの辺りが重苦しくなったのを覚えている。予告編をどうぞ。



40代のオッサンになった今、もう一度この名作を観て、なんという素敵な作品なんだろうと思わずにはいられなかった。オッサンなので、若干分析的に感想を書き留めておきたい。

まるちょうがこの作品で一番胸に残るのは次の二点。

#1 王女と記者の人間的成長
#2 恋を秘め事にすることの、切なさと美しさ

まず#1から語ってみる。アン王女は、初めの描写では「王女」という大変な任務に価しない、全く幼い少女である。王室の取り巻きの言いなりで、精神的にも参っている。それが、ローマでの一日を過ごした後、明らかに「大人の女性」に変容している。眠前のミルクも必要ない。一方、新聞記者ジョーの方も、初めは大スクープ→大金をせしめることに夢中だったのに、最後は結局記事にすることをあきらめる。女を愛してしまったからね。

「二人の人間的成長」が一番現れているのが、最後の記者会見のシーン。女は揺らぎなく「王女」として振る舞い、男はまた揺らぎなく「新聞記者の一人」として振る舞う。二人とも、別れ際に車内で熱い抱擁をしたのにも関わらず、である。アン王女が各社の記者たちと握手するシーンが一番象徴的。王女はあくまでも公平に握手して、ジョーも記者の一人として当たり前のようにさらりと挨拶する。この微妙な距離感が、もどかしいけど美しいと思うんだな。この距離感はなんで発生するか? そりゃもう「愛」なわけですよ。とりわけ「与える愛」ですね。相手の立場を尊重するからこそ生まれる礼節なんだと思う。この記者会見のシーンの気高さは、観ていてうっとりするね。すごい満足感がある。

次に#2。記者会見の中での以下のやりとりに注目したい。



アン王女「私は国家と国家の友情を信じたいと思います。人と人との真心を信じるのと同じように」

ジョー「王女様の期待は決して裏切られることはないでしょう」

他の記者「最もお気に召した訪問地は?」

アン王女「それぞれに良さがあって比較は難しいですが・・・ローマ! なんといってもローマです。今回の素晴らしい思い出は、生涯忘れないでしょう」

最後の決め科白は原語でどうぞ。

Rome! By all means, Rome.
I will cherish my visit here in memory, as long as I live.

cherishとは「忘れずに大事に心に抱く」という意味。要するにこの言葉はジョーのことを一生涯胸の奥に秘めてこれから生きていく、ということ。アン王女のジョーへの愛情の深さは、その表情を観察すれば明らかである。オードリーは、ここの微妙な切なさを表情一つでよく演じている。

そうして記者会見の一番最後に、王女は記者団(あるいはジョー)に麗しい笑顔を投げかける。一瞬切なげになるも、次の瞬間にはその想いを断ち切るように踵を返す。アン王女は、この刹那に「これから一生、王女としての仕事を全うする」という覚悟をしたと思う。その潔さを「美しい」と言わずしてなんだろう。そしてラストに、ジョーが会場を後にして独り歩いていくシーン。あらゆることに耐えて、アン王女の幸せを願う「男の孤独と優しさ」がにじみ出ている。これを「渋い」と言わずしてなんだろう。



最後に、この映画はホントにため息なしでは観れない。それほど完成度が高いし、観た後の満足感や心を揺さぶられる程度が半端でない。ひとつこの映画から教訓を汲み取るとすれば「人生とは耐えることとみつけたり」ということだろうか。耐えることに美しさは宿る、そんな気がする。以上「ローマの休日」の感想を記しました。