小さな鳥・・「人間交差点」より

左翼と右翼。僕はどちらかと左なのかと思うのですが、わりと享楽主義的なところもあり、厳格な左ではあり得ない。中道という立派な思想もなく、結局「無党派層」なんだと思います。ま、結局、それほど政治に関心がないもんね。もちろん、投票は行きますけど。左翼と右翼、どちらも長所と短所がある。どちらを選ぶのも自由だけど、本作の原作者、矢島正雄氏は「左」なんだろうと思う。まずは、あらすじから。

三人の男兄弟がいる。長男の才一、次男の次郎、三男の三夫。才一は、東京の一流大学を卒業したにもかかわらず、地元の工場に就職して、工員をしながら組合活動などの政治的な道を歩いていった。次郎は大学を卒業して、商社にはいり、まるで水を得た魚のように出世していった。三夫は小さい頃から、二人の反目を観察しながら育ってきた。彼は数年のサラリーマン生活を送った後に、物書きとなった。生活は多忙を極め、かつ荒んでいた。原稿の〆切が迫ったある時、一本の電話がはいる。それは群馬県の警察からで、遺体の確認の依頼であった。

なんてことだ! 身元不明の死体が、どうやら長男らしいのだ。国道沿いの山林で、死因は凍死、死後三〜四日で、所持品は三夫の書き下ろしのハードカバーが一冊のみ。その本の裏表紙に、遺書らしきものが書いてあった。「完璧な一生だった。あとは完璧な死を迎えるだけだ」

長男の才一兄さんだということは、すぐわかった。警察署での死体確認。間違いなく、長兄の才一である。才一の自宅へ電話してみる。娘の美咲が電話に出て「お父さん、一週間前からおうちに帰っていないの」と。三夫は、才一の自宅(三人が育った生家)へ向かうことにする。

才一の自宅では、妻が待っていた。「つい先ほど、主人も出張から帰ってきたのよ」三夫は思わず「え?」となる。「三夫じゃないか、久しぶりだな」と笑顔の才一。つまり、長兄とばかり思い込んでいたが、死体は次兄のものだった。

次兄の出世は、人もうらやむものだったらしい。それが突然狂い始めたのは、離婚からだという。生活は荒れ果て、とうとう会社も倒産し、着のみ着のままで生家に戻ってきた。でも、生家を遠くから眺めるだけで、長兄に会うことはなかった。そしておそらく、三夫の本をみつけ、それを読み終えたあと辞世の言葉を書いて、一人で死んでいった。

本作で大事なモチーフが、鳥の巣箱である。才一がシジュウカラの巣箱を作るとき、巣箱の穴は直径2.8センチから3センチの間でなければダメと言う。ちょっとでも大きく作ると、他の鳥が入ってしまう。次郎が「いいじゃないか、何センチでも。他の鳥が入ったのなら、それはそれで構わないじゃないか」と反論する。才一いわく「鳥ってのは、それぞれ適した大きさのところに住むようになってるんだ」と。次郎「じゃ、そのシジュウカラが太ったらどうするんだ。自分の巣箱に戻れないじゃないか」才一「そんな堕落した鳥は死ぬしかない。それは自分の責任だ」


「足るを知る」という言葉がある。人が幸せに生きるための金科玉条だけど、資本主義社会という枠組みでは、なかなかこの大事な言葉は活かされないと思う。欲望という怪物は、大体において青天井であり、そうしてその人間を変質させてしまう。拝金主義という歪んだ空間の中で、下衆な魂は膨れ上がり、自分の生きている場所が幻想だということを忘れてしまう。もちろん、社会主義というシステムにも問題はある。ただ、右であれ左であれ「自分のかつて所属していた場所」を忘れてはならないと思う。賢い人は「足るを知る」という真理を、ちゃんと胸に秘めている。

職場で知り合った女性と結婚した才一の家計は、常に貧しかった。給料の半分近くを、所属している政治団体にカンパしてしまうのだという。しかし、いくら貧しくても幸福そうだった。暖かい鳥の巣のような家庭だった。

左翼と右翼。どちらが正解とか、ないです。ただ、生きる上で「良心」は捨ててはいけない。他人への思い遣りがなくなっては、右も左もない。次郎は自分の欲望に忠実に生きた。でも、次第に自分の「身の丈」を忘れたように思う。太りすぎて、元の巣箱へ戻れなくなった。矢島正雄氏は、それを「堕落」と表現する。やはり「足るを知る」という言葉は、金科玉条なんだと思いました。以上「漫画でBlog」で文章こさえました。