ロビン・ウィリアムズの演じた、セイヤー医師が好き。朴訥として不器用だけど、愚直に前に進もうという人物像。ロビンはコメディアンであるとともに、どこか哀愁があった。2014年8月11日没。もう8年になるのか。デ・ニーロの熱演がよく話題になるけど、僕はロビンの抑えた演技が好きでした。
「レナードの朝(原題 Awakenings)」(ペニー・マーシャル監督)を観た。医療者としてこの作品を鑑賞するとき、いろんな感情が湧き出てくる。次の軸で本作を語ってみたい。
#1 30年の欠落と儚い覚醒
#2 セイヤー医師のキャラについて
まずは#1から。嗜眠性脳炎という病。原作はオリヴァー・サックスという医師のノンフィクション。30年間「死ぬようにひたすら眠っていた」患者が、次々と覚醒する。そこには、セイヤー医師(ロビン・ウィリアムス)の注意深い洞察、独特の思考、大胆な行動があった。つまり、本来パーキンソン病の薬であるL-DOPAをこの病気に応用するという、ある意味無謀と言われても仕方ないやりかた。まず、一番重症だったレナード(ロバート・デ・ニーロ)に対して、試行錯誤が始まる。もちろん初めはうまく行かない。牛乳に混ぜて、大量に服用させることにより、レナードは目覚めた。真夜中の覚醒のシーンは印象的。静かな奇跡の夜。そして翌朝の母との「再会」。これは医療者として、泣けて仕方ない。30年だよ。11歳から死んだように眠っていた息子が、41歳で目覚めた。ここの母親の気持ちを考えると、思わず嗚咽してしまった。演じているルース・ネルソンという年配の女優さんも、素晴らしい仕事。
この1969年の夏に起こった奇跡。15人の嗜眠性脳炎の患者が次々と覚醒して「生きることの喜び」を取り戻そうとする。特にレナードは「今生きている人々は、生きることの素晴らしさを忘れている」と主張する。そして、自由や愛を求める。具体的には、親からの自立、ポーラへの恋。しかし、病院の体制との衝突から、次第に反逆的となりチック症状がひどくなる。あるいは動作の突然の中途停止など。
セイヤー医師の懸命の薬の調整にもかかわらず、次第に15人の患者は再び元の「死ぬようにひたすら眠る」状態へ戻っていく。この過程で、素晴らしいシーンが用意されている。チック症状の悪化でポーラとの別れを告げたレナード。しかし、ポーラはレナードと音楽にあわせて踊ろうとするのだ。不思議とチック症状が軽減していく。次第に優しいまなざしになるレナード。
このシーン、もちろん脚色は入っている。現実にはあり得ないんだけど、素晴らしく美しくて気高いシーンだ。理屈とか常識とか、くそくらえじゃ。観るものは、こうした美しいシーンは、手放しでうっとりしちゃえばよい。そのための映画なんだから。セイヤーは言う「人間の魂はどんな薬よりも強いのです」と。医療者が日常に埋没して忘れがちな言葉だけど、私は医療の基本でさえあると思います。
次に#2について。セイヤー医師は医療界において、はっきり言って「異端」です。ふと例の「富山・射水市民病院で外科医が末期患者の呼吸器を外した事件」を思い出してしまった。一番印象的なのは、大量のL-DOPAをレナードに飲ませるシーン。常識では考えられない量。これは医師としての倫理に外れる行為であり、何か事故があれば犯罪に値するくらい危険な行為。しかし、医療とはこうした「医師としての良心や直観に基づく賭け」って、必要になることがどうしてもある。そこで一番大事なのが、根底にあるもの。セイヤーはそれこそ一途に、阿呆なくらい一途に患者のQOLを良くしようと、こうしたリスクを敢えて冒すのだ。これが「無抵抗で痴呆の患者だから、ちょっと試してやろう」という悪だくみがあるとしたら、それは全く犯罪である。患者のためにではなく自分の業績のためにやるのだから。例えば「羊たちの沈黙」に出てくるフレデリック・チルトン医師なんか、そのタイプだろうね。
さて、話を戻して「英断と逸脱は紙一重」なのであり、医療とはそうした表裏一体の薄い紙の上に成り立つ行為なのだ。思うんだけど、医療なんてものは楽天主義じゃなきゃ、やってられないよ。恐れていては、全く前に進まない。そこで大事なのが、医師と患者(家族)の信頼関係である。セイヤー医師は同意書も取っていたが、家族にちゃんと態度や表情で示している。寝ずの番をしたり、嬉しい時は患者とともに喜び、分からない時は苦悩を隠さない。
さて、奇跡は起こり、しかしひと夏のうちに淡く消えた。セイヤーは自分を責める「命を与えてまた奪うのが親切なことかい?」と。この自省があるかぎり、セイヤーの行為は許されると思う。医師と患者は基本的に「友達」であってはならない。その距離が近すぎると、診療の様々な局面でよくない影響が出るから。でも・・ある意味で「友達」であることを捨ててはいけない。看護師エレノア(ジュリー・カブナー)は言う「セイヤーとレナードは友達だった」と。そう、医師も患者から学ぶという意味では「友達」という側面はあっていいんだと思う。上からじゃないと気がすまない医師は「医療の双方向性」について、少し考えてみるべきだ。
セイヤー医師と私には、ずばり共通するところが多い。人そのものは好きなんだけど、人間関係とか組織が苦手。いつもはみ出してばかり。ついつい感情移入してしまう。そうそう、本作のラストがごっつ好きなんですわ~ 人付き合いの苦手なセイヤーが「敢然と」エレノアをお茶に誘う。レナードがかつてこう言った「あんたに何がある? 孤独で何もない生活。眠っているのはあんだだ!」と。このきつい言葉を思い出したに違いない。医師セイヤーは、そうして自らの「病気」を克服する、大きな一歩を踏み出したのだ。これ、まさに医療の双方向性ですよ。エレノアっていう看護師は、地味だけどすごく好感の持てる人だと思う。医師として、ぜひ一緒に働きたいと思うタイプ。夕暮れの中を二人で歩いていくシーンは、ホント心温まる。医療者として、いろんなことを考えさせられる作品でした。以上「レナードの朝」をネタに、文章書いてみました。