(再掲)ピアノ・レッスン/ジェーン・カンピオン 監督

1993年公開の作品。導入は古風な印象だけど、本作のコアはとても普遍的。固着しているものを切り離して、新しい自分を獲得していくプロセス。こうした「勇気ある新生」が、女性により語られていることに注目。予告編を載っけておきます。




「ピアノ・レッスン」(ジェーン・カンピオン監督)を観た。見終わったあとに、しっかりと心に何かが焼き付いている。なんといってもマイケル・ナイマンの音楽が秀逸。舞台は19世紀半ば、未開のニュージーランドであり、やや作品に入っていくのに苦労するけど、この音楽がそうした障壁を流し去ってくれる。本作はいろんな楽しみ方ができる。音楽はもちろん、映像的な面白さ(海辺にぽつんとピアノがある図とか)、もちろん男女の愛憎劇もみもの。でも・・まるちょうは、主人公エイダ(ホリー・ハンター)の心の動きについて、考えてみたい。

冒頭にあるエイダの「心の声」を書き出してみる。

6歳で話すことをやめた。なぜかは、私自身にも分からない。父はそれが私の「暗い才能」で、息を止める決心もしかねないと嘆く。(中略)私自身は自分に声がないと思っていない。ピアノがあるから。

原題は「The Piano」である。個人的には、こちらの方が本質的だと思っている。エイダの所有するピアノは、いわば「陰の主人公」だ。エイダはピアノを通して、自分のコアを表現する。つまりピアノはエイダの血と肉であって、それなしでは彼女はこの世に成り立たない。このことは娘のフローラ(アンナ・パキン)も熟知している。そうした前提があって、次の重要なシーンが生まれる。



海辺でピアノを弾くエイダ。その安堵にも似た微笑みが、彼女の「心の解放」を語っている。その音色にのって踊るフローラ。それは、いつ終わるともしれない楽園のようでもあり、粗野なベインズ(ハーヴェイ・カイテル)も、いつしか魅了されてしまう。

作中、エイダは壮絶な愛憎劇の末にピアノを斧でたたき壊され、右の人差し指を切断されてしまう。その時のエイダの絶望と虚無を、ホリー・ハンターは極めてリアルに演じている。監督の演出も素晴らしい。しかし・・この時点で、エイダの心はベインズに満たされていた。ベインズの不器用だが熱い愛で、彼女の心に変化が訪れていた。何かが「開こう」としていた。

そしてラストに近い重要なシーン。エイダとベインズは恋仲を認められ、船にて新天地へ向かう。壊れたピアノをどうするか。エイダは「ピアノは海に捨てて」と手話で伝える。



このシーンは、個人的には「訣別」を意味していると思う。己の一部だったものを切り離すプロセス。しかしピアノは、そう簡単には離れてくれない。「あなたも一緒に海底に沈みなさい」と言わんばかりだ。この訣別は暗黒に覆われ、一瞬、死の影がさまよう。でもそこで、エイダは足に絡んだ縄を解いて、必死で海面から上に顔を出す。彼女は自由を勝ち取ったのだ。沈黙という「呪縛」からの解放を、このシーンは象徴している。
なんという死! なんという運命! なんという驚き!
この映画が女性監督によって紡ぎ出されたという事実に、敬意を表したい。この「痛みをともなう脱皮」あるいは「新生のための潔さ」は、本来的に女性のものだと思う。それを映像でしかと表現したジェーン・カンピオン監督は、すごいというしかない。声を取り戻したエイダの独白を記しておく。

夜は・・海底の墓場のピアノを想い、その上をただよう自分の姿を見る。海底はあまりにも静かで私は眠りに誘われる。不思議な子守歌。そう、私だけの子守歌だ。音の存在しない世界を満たす沈黙。音が存在しえない世界の沈黙が・・海底の墓場の・・深い深いところにある。

この言葉の後にエンドロールがくる。シブー! 自分が捨て去ったピアノを夢想しながら、眠りに落ちる。深い深いところにある沈黙を子守歌にして眠る。過去に訣別した女性というのは、こういうものかしら? 大切なもの(人)が、自分の生きていく上で要らなくなったとき。女という生き物は、毅然としてそれを捨て去るだろう。なぜなら、それが生きていくということだから。血と肉をはぎ取られても、自分の人生を掴みとっていく。そのための勇気は、女性にネイティブなのかもしれない。女というやつは・・烈しいっすね(笑)。以上「ピアノ・レッスン」で語ってみました。