近況・・隠れ家居酒屋で旧友とサシ飲みした

「サシ飲み」という言葉をご存じだろうか。40代の頃、この言葉に潜む「重さ」に気づかず、同級生のT先生とか、高校同期生のN君とか、定期的に飲みに誘っていた。たぶん、T先生とかN君とか、迷惑だっただろうなー。今ではそう思える。あの頃は、自分が本質的に「孤独な存在」であることに、まだ気づいていなかった。家庭をもち、友達はいなくて、それでも寂しくないけど、このままでいいんだろうか? やっぱり、友達と呼べる人間を、ちゃんと「確保」しておくべきでは? その頃の僕は、おそらく「友達がいない」という状態を恐れていたように思う。あるいは恥ずかしかったのかも。

男同士の「サシ飲み」は、やはりちょっとした「重さ」があると思う。女性と違い、男性は、いわゆる世間話が得意でない。少なくとも、僕はそうです。どうでもいい話で場をつなぐ、というスキルが欠落している。そういう人間が「飲みにいかへん?」と、軽々しく誘うのはおかしいと思っている。実際に「サシ飲み」が始まって、話のネタに尽きて、二人とも黙ってしまったらどうするよ? 男性二人なら、あり得ることだ。しかも自分が誘ったなら、それは罪が重い。

前置きが長くなった。24日(木)に旧友のM先生と「サシ飲み」をしました。きっかけは、Messengerで二年ぶりにM先生から連絡が入った。詳細は伏せますが、その中でM先生が「飯いこか?」と誘ってくれた。上記のように、僕から誘うのは気がひけるが、誘われたら嬉しい。特にM先生は、僕が双極性障害でどん底にいる時に、そう、1998年とかかなー? あの頃は、本当に孤独だった。自分は医業のレールから外れて、週に一度、バイトしている頃。あの頃、Macについて、いろいろ教えてくれた。あの時も「サシ飲み」だったと思う。本当に嬉しかった。

あれから20数年が経過し、男の「サシ飲み」でも、話のネタが尽きることはあるまい。場所はM先生が探してくれた。僕が「京都駅周辺」という注文を出した。「神兵衛」という隠れ家居酒屋である。僕はやや不安だったので、定刻の一時間前に、その隠れ家へアクセスを試みた。iPhoneのマップを手がかりにして探すも、もうひとつはっきりしない。それくらい真剣に「隠れ家」なのである。いったん、七条烏丸の珈琲館で一息入れる。僕は元来が方向音痴なので、こうした作業はたいてい予定通りには行かない。

待ち合わせの時刻は17時半。七条新町を少し上がったところにあるのだが、さっきチェックしたのとはぜんぜん違う風景が広がっていた。細長い入口をおそるおそる進むと、玄関が現れた。すげーな。どうも、本来はしらす丼が自慢らしいが、今はしらす不足で提供できないようだ。店の中では、すでにM先生が待っていた。やー、久しぶり!

サシでいろんなことをしゃべった。親のこと、兄弟のこと、家庭のこと、そして自分のこと。M先生も腰を痛めたそうだ。ジムに通っているらしい。阪神が好調なこと、岡田監督がいい仕事しているとか。50代半ばって、いろんなしがらみがある。だから「真っ白な自由」は、あり得ない。というか、その「へばりつくようなしがらみ」のがんじがらめの中で、いかに呼吸をし、気力を保ち、空気の流れを感じ、幻かもしれない「出口」を夢見るか。もちろん人それぞれだから、M先生と僕とでは自分を取り巻く世界観は違う。でも、そうした50代半ば独特の「苦しいけど、なんとかしなければどうしようもない」という共通の感覚はあると思った。そう、どうしようもないのだ、まさに。

三時間半くらい呑んで、しゃべっただろうか。旧友と、よい時間を過ごせた。ありがとう、M先生。M先生、いろいろ話を聞いたけど、彼も本当に過酷な人生を送っている。そして、その過酷さに、しっかりと立ち向かっている。「M先生、頑張ってるなー」と思いつつ、自分も頑張らねばと、力をいただいたのでした。男同士のサシ飲みは、たまーにするのはいいもんだと思います。以上「隠れ家居酒屋で旧友とサシ飲みした」と題して、文章こさえました。