「ドライブ・マイ・カー/村上春樹 作」を再読して

濱口竜介監督の映画「ドライブ・マイ・カー」が話題である。カンヌでは脚本賞を受賞、アカデミー賞も作品賞を含む四部門にノミネート。村上春樹の短編集「女のいない男たち」より再構成された脚本になっている。僕のKindleの中に、この本は眠っていた。つまり、一度読んだわけね。でも、内容はあらかた忘れてしまった。話題になってるし「じゃ、読み直してみるか」となったわけ。

読んでみてどうだったか。いやいや、優れた読み物だと思ったですよ。読んだあとに「確かななにか」が残る。味わい深い余韻。短編だけど、再読に値する作品と思った。映画の脚本は濱口監督と大江崇允という方が担当されているようだ。約三時間の、ちょっとした長編映画である。原作の「本線」がどのように加味され、膨らまされ、そうしてどんな化学反応が起こっているのか。すでに多数の作品賞、脚本賞を獲っていることからも、本作の脚色が成功していることは明白である。

さて、本題に入ります。作中の言葉にインスパイアされて、今回は文章をこさえてみたい。主人公の家福について、印象的な記述がある。

何も知らないでいられたらどんなによかっただろうと思うこともあった。しかしどのような場合にあっても、知は無知に勝るというのが彼の基本的な考え方であり、生きる姿勢だった。たとえどんな激しい苦痛がもたらされるにせよ、おれはそれを知らなくてはならない。知ることによってのみ、人は強くなることができるのだから。

「知らぬが仏」という言葉がある。知らない、あるいは関知しないことによってもたらされる平和。IT化が進んだ現代では、死語なのかもしれない。でもね、どんな人だって「恋という戦場」を体験するまでは、唐変木なんですよ。



もしも君に会わなければ もう少しまともだったのに
もしも好きにならなければ 幸せに過ごせたのに
朝焼けの風に吹かれて あてもないのに
君を探そう このまま夕暮れまで
Holiday Holiday Holiday
(スピッツ「Holiday」より)

僕が学生時代に失恋して、自分の「無知」を知ったとき。疾風怒濤の渦中に放り込まれ、もがきにもがいた。「女という生き物は、なんぞや?」という問いかけの中で、白目になった。柴門ふみの「女ともだち」をむさぼり読んだ。インドとかネパールとかアフリカとか、とりあえず行ってみた。研修医になって、失踪して水口食堂に勤めた。双極性障害になった。誇張でなく、地獄のような10年間だった。

男にとって「女を知る」ということは、地獄の底をのぞくようなものである。少なくとも、青年まるちょうにとっては、それが事実であった。女を知らずに人生をいきればよかったのか? いやいや、それはムリ。人生のどこかで「女の地獄変」を体験したに違いない。というか、人と人が交われば、幸せもあろうけど、地獄も伴ってくるものだ。人間関係とは、たいがいそういったものだから。

家福は「知は無知に勝る」という姿勢をとる。すなわち「知にともなう地獄」を見たい、というわけだ。勇気ある姿勢に乾杯。マゾなのかな。でも、人生の中で成長したい、という意志を持つ人ならば、その「地獄をあえて見てみたい」という願望は理解できるのではないか。もちろん、体力と知性が必要になりますが・・ それと、運もね。

家福は、その胆力のいる姿勢でもって、ひとつの結論にいたる。ドライバーのみさきの簡潔なひとことで救われる。女であるみさきにとっては、どうということもないこと。家福の怒りのようなもの、あるいは心の棘が、魔法のようにクリアされる。呪縛からの開放。「地獄をあえてのぞこう」としたから来れた境地。

明日、アカデミー賞の発表のようです。脚本賞取れないかなー? ちょっと期待してみよう。映画はいずれ観る予定です、もちろん。取れたらいいなー