「医者は賢くなくていい」という言葉について

ごめんなさい、これ、私が学生時代くらいに聞いた言葉です。テレビで討論会をしていて、お題が「医師不足の時代をいかにするか」みたいなことだったと思います。そこで医師会代表の年配の先生がぽろっと「医者は賢くなくていいんですよ」と言った。司会のアナウンサーは「賢くなくていいんですか?」と、ちょっとギョッとした感じで問うた。年配の医師は、もごもごっとなった。

今の自分なら、年配の医師の言葉を補うことができるかもしれない。医師は、医学部に入学して医師国家試験に合格しなければいけない。そして、それ以後も医師としての勉強は続く。でも、その上で「医師は賢くなくていい」という命題は成立すると思う。これは特に「外来医」という括りにおいて。

外来医は、人間を「そのまま人間として」診ることが求められる。なぜなら、患者さんはその日、自宅という「生活しているところ」から来ている。患者さんは各々の「症状」を持ちつつも、自分固有の癖とか態度とか偏りは捨てていない。つまり、外来には実に様々な患者さんが来られる、ということ。

その「多様性」に耐えられない医師は、転科や転職を考えるべきかもしれない。臨床医に求められる、第一の適性だと思う。患者さんの癖や偏りを把握しつつ、怒らず、先入観を持たず、平静に診療を進める能力。これは医学というより「人間学」と呼ばれるものだ。その医師が、それまでにどれくらいの幅の人間と触れ合ってきたか。その幅が狭ければ、ちょっとした偏りだけで、アレルギーが出るだろう。そうして、妥当な診療は成立しなくなる。その医師の「人間に関する寛容性」が、問われるのだ。

シャープな頭脳の持ち主が、多様性に耐えられるだろうか? 否、外来医はむしろ「鈍」な方がよい。鈍な方が、多様性に順応できると思う。年配の医師が仰っていた「賢くなくていい」というのはまさにここ。シャープな頭脳を持つ医師の、上からの指示をイメージして欲しい。患者さんは、果たしてそれに従うだろうか? そこには「共感」が欠けている。そして、患者さんは「単なる命令」では動きにくい。共感からくる信頼関係があってこそ、適正な医療は可能なのである。

様々の背景を持つ患者さんの目線まで降りるということ。大事なことと分かっていても、忙しさとか、その日の体調とか、いろんな不運が重なったりして、そうした「共感」を損なうことも、まれにある。しまったー、と思ったときはもう遅い。患者さんは、どこかよそよそしくなる。患者さんは、よく見ておられる。われわれ医療者は、鈍であると同時に「恒」でなければならない。いや、これは社会人全体に言えることかもしれない。サービスを供与する側が「一定でぶれない」こと。これはいわゆる「仕事の厳しさ」ということになるか。

「鈍」にしろ「恒」にしろ、いわゆる医学の知識とは別なものである。でもある意味で、患者さんが医者に求めているのは、案外こういうものなのかもしれない。患者さんは、全人的で不変の人格に触れて、癒されるのである。年配の先生が仰ったように、医者には特別な才能は要らないように思う。

しかしながら、もし医者が「鈍や恒」にあぐらをかいて「満足した豚」になったとしたら、どうだろうか。いやいや、特別な才能がないからこそ、生涯勉強なのです。そうして凡庸な私は、今日もシコシコ勉強するのでした。以上、ちょっと偉そうに語ってみました。