「ドライブ・マイ・カー/濱口竜介 監督」を観て(2)

引き続き「#2 共生、そして生きていくということ」というお題で語ります。次の重要なシーンをご覧ください。



ドライバーのみさき(三浦透子)は、ひとことで言うと「幸うすい」女である。家庭環境も最悪だったし、社会の汚い部分を見ながらここまで生き抜いてきた。原作でも映画でも、ほとんど笑う場面はない。そして飛び抜けた運転の技術を持つ。底辺を歩いてきた者にしか備わらない、洞察力と優しさ。

みさきの生家跡を前にして、彼女のカミングアウト。つまり、女という生き物には、そういう不条理があり得るということ。そして音という女性も、けっして謎ではなくそういう人だったんだ、という「ありふれた肯定」はどうかと。これはまさに、家福に対する「優しさ」。

家福は高い知性を持った人だ。だからこそ音の不貞も表沙汰にせず、ずっと耐えてきた。そう、心の中では「気も狂わんばかりに乱れていた」にもかかわらず。でも今や、彼は自分の「回避性」を憾む。なんで生前に、ちゃんと音に自分の感情を伝えなかったのか。もう音は逝ってしまった。もう、いないんだ。このことに、家福は気づくのだ。高い知性は、物事を留保しやすい傾向がある。でもやはり、ごまかさずに自分と向き合うべきだった。でも、もう遅い。愛する音は、既にして永遠に失われた。家福は嗚咽する。

ロケ地は北海道の赤平市らしい。純白の雪景色がとても美しいシーンである。二人は抱擁し、死んだ者を記憶する人間同士として「へこたれてはいけない、生きていかなくちゃ」と決意するのだ。ここでひとつ思うのは、やはり人間は他者との関係性において、気持ちを整理し、ポジティブに持っていけるのかなぁ、と。ここの西島秀俊の演技は圧巻である。すごいタイミングで涙がぽろりと落ちる。神がかってるな。

最後に、チェーホフの至言を手話でご覧ください。「ワーニャ伯父さん」という戯曲より。絶望に陥りながらも死ぬことではなく、苦悩に耐えながらも生きることを選ぶ人たち。ソーニャ(パク・ユリム)が、絶望するワーニャ伯父さんを手話で励ます場面。



ひとつ言えることは、ソーニャも失恋で大いに傷ついているのだ。でもめげない。手話の動作で「信じる」という言葉が印象的かな。両の手をビシッと合わせる。ここに強い意志を感じさせる。ソーニャがハンディキャップを持つことにより、ここの科白は、より心に刻まれるものとなっているように感じる。人種を超えて、言語を超えて、障がいの有無を超えて、共に生きるということ。濱口監督のイデアには、こうした美しさがあるように感じました。以上「ドライブ・マイ・カー」で二回にわたり語りました。