村上春樹原作の映画というと「ノルウェイの森/トラン・アン・ユン監督(2010)」をどうしても思い出す。個人的に、あれは失敗作だと思っています。レイコさんの取り扱いが、あまりにも酷い。片手落ちもいいとこ。当時「そこ省いてどうすんの?」と、ムカついてた。あの作品は133分という尺だった。長編小説を二時間ちょいの映画というメディアに変換しようとした場合、どうしたって「目をつぶって削る」という作業が必要となる。「ノルウェイの森」は、レイコさんの背景とか、いろんな重要な伏線が削除されていた。トラン・アン・ユン監督が、どういう計算をしたのか分からないけど。
全く違う映画ですが「ドラゴンタトゥーの女/デビッド・フィンチャー監督(2011)」は、158分という尺で、原作を周到に映画化していたと思う。これは原作(スティーグ・ラーソン)がチョー面白いので、それはそれでいいと思ったが、、 でも、原作を超えることはできないのね。少なくとも「ケミストリー」は起きにくい。つまり、長編小説を映像化するときに、この困難は常につきまとう。
そういう意味で、本作は短編という細い軸に、まるでバウムクーヘンを焼くように丹念に厚みを増している。それは「木野」「シェエラザード」という他の短編だったり、「ワーニャ伯父さん」「ゴドーを待ちながら」などの演劇だったり。これだけは言える。本作は原作にない「なんらかのケミストリー」を生じている。既にして村上春樹の地平を飛び立っているのだ。
二回に分けて語ります。次のふたつの軸で。いつもの「警告」ですが、僕の映画コラムはバシバシにネタバレしていきます。まだ観ていない人は、ぜひ本編を観てください(今時はネットでも視聴可能です)。よろしくお願いします。
#1 音の深い苦悩と解離
#2 共生、そして生きていくということ
まず、次のシーンをご覧ください。
家福悠介(西島秀俊)が自宅で、妻の音(霧島れいか)の不貞に遭遇する場面。レコードから流れる曲は、モーツァルトのピアノソナタ Rondo In D, K.485である。軽やかでイノセントな響き。そのリズムに合わせて音と激しく交わる高槻。呆然と立ち尽くす家福。しかし、音は絶頂のあまり、家福の存在に気づかない。家福は静かにその場を去る。つよい困惑と衝撃を抱えて。
伏線として、かつて愛した幼い娘の死がある。この人生の困難が、彼女を狂わす。次の子作りはしない、これは夫にも承認してもらっている。これは専門的にいうと「予期不安」ということになるか。もうあんな地獄のような悲しみはごめんだ、恐ろしすぎる。音は苦しみに対して「逃避」する。それ自体は、ぜんぜん悪いことではない。でもその延長線上に、夫以外のどうでもいい男と寝る。おそらく高槻に抱かれている音は、分身しているのだ。別人格となり「軽やかでイノセントな」時間に身を置いている。これは専門的にいうと「解離」ということになるか。逆にいえば、それだけ人生の困難を「重々しく、罪悪感に満ちた」ものとして、音は苦しんでいる。そうして苦しみから、どうにかこうにか逃れようともがいている。
だから、音は心から夫を愛している。ここに全く偽りはないのだ。僕は医者だから、こうした解釈ができるけど、家福はそんなわけにいかない。音は謎を残したまま、急死してしまう。残された家福の悲しみ、孤独、そして怒りは、いかばかりだろうか。どうしても残る「音は嘘をついていたのだろうか?」という疑念。次回、家福の気持ちの整理、気づき、そしてチェーホフからの至言を噛みしめたいと思います。