前回の投稿が、2月19日。あの時は、冒頭に「降参します!」と書いたのですが、実はまだ降参していなかった。ふと「Appleから脱出すればOKなのか?」という閃きが、天から降りてきたのです。Google Pixel8へ乗り換えてみました。でも、結果は同じだった。例えば、LINEアプリを開くと、5分くらいスタート画面が続く。これ、出勤時に駅なんかでこうなると、けっこう困る。また、ヨドバシアプリに入れない。ヨドバシの店員さんに相談したら、みなさん首をひねっておられた。向こうのITエキスパートが、現状を把握できない。つまり、それほど根が深いということ。うまく表現できないけど、すでに「Pixel8に入られてる」という印象を拭えなかった。
すでにGoogleのタブレットとウォッチも届いていたけど、キッパリと返品した。返品の仕方がGoogleらしいスマートさで、ちょっと感心した。Googleはファミマと連携してるんやね。店員さんもテキパキとさばかれた。
そうして、僕には「例の共生」しか、選択肢がなくなった。とりあえず、通常の生活に戻ろうと思います。常に情報は漏れているという想定で、生活する必要がある。「奴さん」が僕の妄想なのかどうか。この半年の経験を振り返ると「妄想だから、気にしない」という風にはならない。警戒しつつも、流して生活する。「共生」とは、そういうことです。何がいちばん大事かというと「仕事を今まで通り、安定してこなすこと」だと思う。そこを肝に銘じて、四月から頑張ろうと思います。
さて、Blog再開のはじめに何を書こうか。いろいろ考えたのですが「言葉からインスパイアされて」で行こうと思います。
「生きることは、たえずわき道にそれていくことだ。本当はどこに向かうはずだったのか、振り返ってみることさえ許されない」(フランツ・カフカ)
深い言葉だと思う。「初心忘るべからず」という言葉が対極にあると思うが、これはあくまでも理想論であって、人生の現場では、カフカが言うような一種の混迷があると思う。僕にとってはこの六ヶ月間は、まさに「本当はどこに向かうはずだったのか」分からなくなって、もがいていた。人生をリアルに直視したとき、いかに「計画通りにいかないか」という嘆きは、みなさん分かるんじゃないかしら。
カフカの短編小説「変身」で、ある朝、グレゴール・ザムザが毒虫になってしまう。壮絶なる「わき道」である。シュールで、ある意味冷笑的かもしれない。この短編の読後感は、僕の場合、あまりよろしくない。だって、なんの救いもないし、なんの祈りもないから。人生には、そうした「まったく笑えない不条理」が起こりうるのだ。毒虫になったザムザは、淡々と家族から排除されていく。そうして残された家族に平和が訪れ、めでたしめでたし。ザムザの人権は? だって、ザムザはもはや人間じゃない、虫けらなのだから。
ザムザほどの不条理ではないとしても、人生には大なり小なり不条理がそこら辺に転がっている。そうして「不本意な方向転換」をされる場合だってある。不条理にアレルギーを起こす人はいるだろう。そうした人は、人生という象徴的、匿名的なものを憎悪するかもしれない。「俺はこんなはずではなかった!」と怒り、悶々とした悪意を心の奥深くはぐくむ。たまに起こる通り魔殺人のような事件は、そうしたネガティブな心理が背景に潜んでいると、個人的には思っている。
心ある人は、そうした不条理にいちいち怒るな、と諭される。「置かれた場所で咲きなさい/渡辺和子」という言葉がある。これは「人生の不条理に抗わず、しなやかに生きなさい」という教えである。この教えは、おそらく自尊心の高い人には、届かないかもしれない。プライドの高い人の弱点は、変化である。彼は「自分が変化するくらいなら、周りが変わればいい」と思う。本当に賢い人は、自分を変える。そうすれば、世界は変わるのだ。
人生は、あまりにも理不尽で、長く、苦しく、思うようにいかない。その「混迷たる人生」を、たまにセンチメンタルに振り返るのもいいかもしれない。あの頃と、現在の「精神的な遠さ」を歌った曲がある。昭和の唄です。
武田鉄矢は当然のことながら、人生の成功者である。彼の成功を嫉妬する人もいるのだろう。しかし、彼こそが「置かれた場所で咲いた」人だと言いたい。彼を人生の模範にせよ、と言いたいのではない。そんな彼にとっても、人生は不条理だらけだったし、気がつけば、故郷から遠い、遠いところに来てしまったという感慨を、この唄は表現している。彼はフランツ・カフカよりは、かなりポジティブな人なんだろう。カフカのような薄暗さはない。
最後に、B’zの稲葉くんがこう言ってる。
Hey!「いつのまにか」じゃない
自分で選んで歩いてきたこの迷路 Woo!(「ねがい」より)