最近、村上春樹を読んでから川上未映子を読んだ。なんで読んだんだろう? ただ、なんとなくです。芥川賞受賞の「乳と卵」を読んだ。読み始めて「なんじゃこら?」の状態となる。えらいクセがあるんですわ~ 文学というのは、ある程度「作者の呈示する流れに乗る」という姿勢が必要である。作者に寄り添うというかね。ちょっとした我慢強さ。この中編を読み終えて、なかなか面白かったんだけど、なんでこういう文体になったんだろう?と興味をもった。例えば、こういう文章。
(前略)ああナプキンは股の布団であるな、を思いながら、体はぼんやり部屋の布団の中に戻り、半分が眠りで白い頭のどこかで、あと何回、ここに生理がくるのかを考え、それから、今月も受精は叶いませんでした、という言葉というかせりふというか漫画のふきだしのような意味合いが暗闇にふわりと浮かんでくるのでそれを見た。それはわたしへ向かってるのか、ただ浮かんでるだけやのか、や、受精、受精ですか、いや、今月も来月も受精の予定は、ないですよ、とわたしはぼんやりした音のない意味で答えます。(後略)「『乳と卵』より引用」
これって女性にしか書けない文章だと思うのね。月経という女性特有の生理現象に対する鬱積したさまざまの感情。「や、受精、受精ですか、いや、今月も来月も受精の予定は、ないですよ」という、新聞勧誘を玄関先でやんわり断るような調子。「受精が叶いませんでした」というふきだし。リアルな月経はもっともっと苦痛で閉口でめんどいものでしょう。(俺は男やし、あくまでも想像ですが) この引用した部分って、一種の昇華なんじゃないかって。月経のくるしみをやんわり、独特のユーモアに包んで表現している。「股の布団」とか、男おいどんには浮かばないっすよ。
(前略)手袋のなかにしまわれた販売員の指についた指輪のことが気になる。それはぜんぶで十本の指があるなかで左手の薬指にはっきりとはめられてあるのだから十中八九、恋人からの贈り物であるはずで、邪魔にならない控えめなデザインと、このめずらしく化粧っ気のない販売員はとてもお似合いで、その組みあわせは少しだけいやらしい感じがした。この飾り気のないふたつはひそひそとぐるになって、恋人のなかの何かとても気の利いたものをその恋人本人には絶対に気づかれないようなやり方で、毎晩のように少しずつ騙し取っているようなそんな気がしたので。(後略)「『あなたたちの恋愛は瀕死』より引用」
Wikiによると「樋口一葉の影響を色濃く残す、改行なしで読点によって区切られ、延々と続く文体」とのこと。樋口一葉なんすか。個人的な印象を記すと「乙女の無意識を文章化したもの」じゃないかって。図式的に言うと「AがBでB’のようでもあり、BといえばCもそうだけど、DはEなのよ」みたいな。女性はどんな無口な人でも、心的構造の中では活発に「しゃべっている」というのが僕の主張です。乙女が社会化され論理化されていくプロセスで、上記の「とりとめのなさ」は修正を受ける、普通は。川上さんの文体は、その「乙女が受ける教育」を意識的に蹴散らしている。
川上さんの作品をまた読むか? 読まないような気がする。おっさんが読むには、ちょっと苦しい文体である。でも「女性の生態」というものを知りたいなら、男性はこういう文章を読むべきだと思う。そういう努力はあっていい。「川上未映子の文体って?」と題して、文章書いてみました。