人間の心の中にある「民度」という闇について

私は「民度」という言葉が嫌いです。「国民性」なら分かる。なぜなら、国や種族によって特色はあるし、得手不得手もあるだろう。しかし「民度」という言葉は、たいてい幻想だと思っている。Wikiから引用してみましょう。

民度(みんど)とは特定の地域・国に住む人々の平均的な知的水準、教育水準、文化水準、行動様式などの成熟度の程度を指すとされる。明確な定義はなく、曖昧につかわれている言葉である。



「明確な定義はなく、曖昧につかわれている言葉」というところがミソ。例えば「港区の住民は民度が高い」と誰かが言ったとしよう。おそらくその「誰か」は、総体としての港区を知ってはいない。いくつかのメディアからの知識を自分なりに総合して「民度が高い」という発言をするわけ。つまりそこにはリアリティーはなく、幻想だけが存在する。仲介するのはメディア。

民度。ネットで恣意的に使われることが多い単語であり、匿名で気軽に使用されるとき、その「気軽さ」の数倍の暴力性で有機的なつながりを分断する。匿名で気軽に使う人にかぎって「したり顔」であり、言葉の重さを担う姿勢はひとかけらもない。


ミネソタ州ミネアポリスで丸腰の黒人、ジョージ・フロイド氏が8分以上にわたって白人警官に膝で押さえつけられ、その後死亡した事件をきっかけに全米で広がった抗議デモは、一部が火炎瓶を投げつけるなどの暴動と化している。

アメリカ国民の無意識の中には「民度」がこびりついている場合がある。こうした「民度」にまつわる憎悪と嫌悪、そして反発が、上記のような事件で表面化する。「黒人は民度が低い」という幻想に支配された人たちは、黒人への暴力や差別を一種の「権利」のように思ってしまう。

黒人側も、放火や略奪、破壊をするような人は、心のどこかに「民度」という劣等感があると思う。黒人としてのアイデンティティをしっかり持った人ならば、常軌を逸した破壊行為には走らないはず。「どうせ俺ら黒人なんか・・」という自意識の低さね。

白人至上主義というけったいな「民度」がある。それの総ボスがドナルド・トランプである。全米で拡がりをみせるデモ活動を極左アンティファが先導しているとして、トランプ大統領は5月31日「テロ組織に指定する」と発言した。アンティファとは「アンチファシスト」の略称で、人種差別や性差別などに反対する極左集団だ。指導者や本部はなく、ソーシャルメディアなどでつながった緩やかなネットワークで、参加者の人数すらはっきりしない。したがって「テロ組織に指定」するのは実際的でなく、自らに批判的な勢力を「テロリスト」とラベリングすることで、白人至上主義者らの支持を固めたいのかもしれない。しかしその後に待っているのは、アメリカ国民の分断に他ならない。そうしてまた「民度という闇」がアメリカ国民の無意識の中に刷り込まれていく。

本日のニュース。「コロナ死者少ないのは【民度が違うから】麻生太郎氏」

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失言が多いのがこの人の特徴ではある。でも、現内閣の副総理なのです。ここの「民度」という言葉の使い方は、まさに定番的なもので、摩訶不思議、玉虫色、曖昧模糊の極みである。なんの根拠にもなっていないところが、逆にスゲーってなる。この発言のあとに残るのは、幻想たる日本民族の優位性の空えばりのみ。副総理として、デリカシーなさすぎ、無責任すぎ。「民度」という言葉の後味の悪さを、しかと体現なさる国のトップを記して、今回のBlogを終わりたいと思います。