Diversityを認めるということ。

LLBean僕はLLBeanというブランドがお気に入りである。一昔前は、ユニクロの無個性さと安さが大好きだった。でもここ数年、ユニクロはすっかり若者向きになってしまった。僕みたいなオッサンが買うには、線が細すぎるのだ。あれは「草食男子」をターゲットにしているのかね? ユニクロから排斥され、露頭に迷い、行き着いたブランドがLLBeanなのである。ここは伊勢丹ほど高くなく、クオリティーはそこそこいい。ここの無地のポロシャツは、なかなかの逸品だと思う(僕は断然、無地がいいのです)。

さて、LLBean。季刊のカタログが送られてくるんだけど、写真に載っているモデルさんが、とてもいいねん。白人はもちろんだけど、アフロ、ラテン、東アジア、いろんな人種のモデルさんが笑顔で仲良く、あるいは渋く、ポーズを決めている。もちろん、フォトグラファーの力もある。とにかく「全世界が笑顔で暮らせますように」という祈りを感じずにはいられない。

僕はこのLLBeanの企業理念を、すてきだと思う。Diversity(多様性)という言葉に帰趨するだろう、この哲学みたいなもの。これを否定した瞬間に、世界は蒼ざめ、つまらなくなり、恐怖に震え始める。偏見や暴力がはびこり、いわゆる「悪の支配」が始まる。僕たちはこうしたネガティブな感情と常に闘わなければならない。これ、たぶん「左翼」とか言われるかもしれないけど、僕はもっと根本的な視点でとらえたい。全世界がハッピーになるためには、各々の人間の多様性をしっかり認めることが大切だと思うのです。それはたぶん「個人や社会が幸せに至る道筋」だと。



例えば、この動画を観てください。レゲエのストリートミュージシャン(たぶんプロ?)が、ボブ・マーリーの「No Woman, No Cry」を唄う。この場面にでてくる人種のカオスがすごい。ミュージシャンはもちろん黒人だけど、白人もいるし、男性も女性も子供も大人もたくさん。「入り乱れる」というのが的を得ている。ビール片手に肩組んで踊り出す人たちがいて、そこには微塵も「人種という隔壁」は存在しない。例えば、前記の肩組み野郎たちがミュージシャンの後ろに回るけど、ミュージシャンは、まったく意に介さない。ここにあるのは「寛容性」と呼ばれる美しくて優しい「人類の宝」である。そう「宝」とまで言ってしまおう。

さてその一方で、かのデューク東郷は「俺の後ろに立つな」という。これは彼が常に「戦場に身を置いている」からである。そこでは「寛容性」という甘っちょろいものは、自滅の第一歩にさえなる。デューク東郷の心の中は、不安でいっぱいなのだろうか? そしてデューク東郷は、実は「弱い」のだろうか? 僕がひとつだけ指摘できるのは、彼という人間は「自分の弱さ」を熟知しているということ。「いつも戦場にいる」という感覚は、寛容性と相容れない。

たぶんだけど、ネット右翼なんてものは、頭ん中は「いつも戦場」なのではないか。実際はネットでぬくぬくと守られているのに「頭の中だけ」戦場なのだ。その根っこには、不安と弱さがある。そして彼らは「相手を許す」ことができない。上記のレゲエミュージシャンのように、無防備に背中をさらす寛容性はない。どちらが強いのか、言うまでもないだろう。もちろんデューク東郷のように、ホントに戦場に身を置いているとしたら、あらゆる状況に対して疑念を持って眺める必要があるだろう。しかし、あれは漫画です。2020年、新型コロナ騒ぎで、今はある意味で「戦争」なのかもしれない。でも・・寛容性、あるいは多様性を認める心は、邪魔にはならないと思う。コロナ騒ぎが終息して、平和が再び訪れたとき、あのレゲエミュージシャンを思い出して欲しい。あのみんなの笑顔と高らかな歌声を。そして音楽とともに「ひとつ」になっていく群衆を。以上「Diversity」という単語をヒントに、文章こしらえてみました。