ゾクッとするような写実と残酷なまでの明暗。Twitterをしていると、そうしたカラバッジョ(1571ー1610)の絵画が流れてくる。どういう人かは知らないけど、すごく「鋭角に心に刺さる」絵を描く人だと感じていた。ある筋から、どうも二月ごろまで大阪でカラバッジョ展をしているとの情報をつかんだ。思えば、昨年は自治会の体育委員で、美術館どころではなかった。年老いた両親のことも気になるけど、今年はちょっとだけ羽を伸ばそう、そう思っている。カラバッジョ展は、あべのハルカスの美術館で開催中。月曜もOKとのこと。1月27日(月)は、スケジュールがうまく空いている。いつもルーチンの「奴隷」になっている僕としては、ここは鎖を解き放つときだと思った。JRにて大阪、いざ天王寺へ。あべのハルカス16階に昇る。心地よい「異界」が僕を待ち受けていた。
カラバッジョの「写実」を語るのによい作品。静物画ですが、ほとんど写真かと思うくらい。こういう精密さは、力尽くで描いてできるものではない。理詰めの構築も必要だし、なぜ対象がそう見えているのかという深い洞察が必要と思う。そう、要するにカラバッジョの写実は深い。まさに天賦の才を表していると思う。ため息しか出てこない。
彼の「明暗の強い対比」を語るのによい作品はこれ。「法悦のマグダラのマリア」 キリストと出会い、我が身を悔いた娼婦マグダラのマリアの姿が描かれている。イエスに赦されて、喜悦に昇天しそうな姿である。個人的には、この絵画に「カラバッジョの毒」を感じてしまう。というか、毒があるからこそ、これだけ艶めかしい。原題は「Ecstasy」という言葉を堂々と使ってるし。暗闇から浮かび上がる、法悦のマリア。全体に赤を採用し、官能的な仕上がりになっている。
さて、こうした「絵画に関する天賦の才」とは別に、カラバッジョはほとんど致命的な欠点を持っていた。「血を求める傾向」というか、素行がとにかく荒い。名声が高まるほど、暴力沙汰や諍いが増える。そしてついに1606年に殺人を犯してしまう。ローマから逃亡した彼は、南イタリア各地を流浪しつつ、その間にもさらに画風を進化させて数多くの傑作を生み出した。しかし1610年、恩赦を期待してローマへ向かう途中、熱病に倒れて帰らぬ人となってしまった。享年38。
個人的な意見ですが、カラバッジョはサイコパスだったのではないかと。彼の絵画にはどこか「逸脱」を感じてしまう。その「常識のなさ」が、彼一流の「超越した」画風を創っていたと。ドストエフスキー曰く「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」と。ここで言う「社会道徳を踏み外す」というのは、つまり「血を流す」ということに他ならない。カラバッジョは、明らかに一線を越えていた。だからこそ、当時のヨーロッパに大きなうねり、熱狂をもたらしたのだ。そうして、17世紀バロック絵画の先駆けとして歴史に名を刻んだのである。
押しも押されぬ偉人ではあるが、いかんせん彼の人格はひどい。まるきり、やくざである。ラスコーリニコフが老婆を殺して、自分がそれほど強くないことに気づいたのと同様、カラバッジョも殺人でおじけづいてしまった。サイコパスは自分が法をつくるときは強いが、法で裁かれるときは弱い。ホリエモンしかり、失脚後のナポレオンしかり。良心が乏しい、あるいは無いといわれるサイコパスだが、カラバッジョがその「乏しい良心」を描いたと思われる作品がある。「ゴリアテの首を持つダビデ」において、ゴリアテの首はカラバッジョその人である。個人的な解釈をすると、これは自分の罪の悔い改め、内省的な姿勢を感じる。罪悪感を持ちにくいサイコパスにしては、殊勝な態度だと思う。学習し自省するサイコパスは偉大かな(スティーブ・ジョブズがいい例)。
38年という短い年月で世界を動かした男、カラバッジョ。美術館を出てから、彼の中にあった「毒」について考えてみた。彼はその「毒」があればこそ、偉大な仕事を次々と成し遂げていったのだ。毒というか、業というか。毒がない方が平和だけど、そんなの退屈。難しいなー、人生って。などと思索に耽りながら、あべのハルカスを後にしたのでした。