「よいことばかりの一年」というフレーズを、どう思いますか?

困難の多い人生を送ってきました。まず自閉症スペクトラム。それに引き続いて研修医一年目でのドロップアウト、そして双極2型障害。それに続発する社交不安障害、過敏性腸症候群。命を脅かす背部軟部肉腫、、 ざっと記すと、ちょっと多いようにも思えるけど、どんな人もこれくらい「困難」はお持ちではないでしょうか? 誕生日祝いの言葉に「よいことばかりの一年でありますように!」というやつがある。私個人としては「クソが!」と思ってしまう。生きているかぎり「よいことばかりが訪れる」ということは、あり得ないのでね。


私の人生において一番きつい「困難」は、双極2型障害でした。この受難で、私の人生はガラッと変わった。医師としての研鑽の道は閉ざされたし、それまであり得なかった社交不安障害や過敏性腸症候群などの副次的な症状に悩まされるようになった。こうした受難は不安や孤立をもたらし、私はときに悲嘆にくれる。そのときに取り得る行動は、ふたつあると思うのです。つまり、泣けるだけ泣いて、ぐっと自分の中でその痛みをこらえる人。もうひとつは、そのストレスを外的な対象(人やモノ)に向ける人。一般論でいうと、前者はマゾヒスト、後者はサディストという事になるでしょう。

私は相当なマゾヒスト・・というか阿呆なので、これまで受難を大きく口を開けてほうばってきました。咀嚼して消化して、排泄する。マゾですから、自己完結なのです。さすがに双極2型障害だけは、消化するのにざっと10年かかりましたから、そりゃもう七転八倒の騒ぎでしたよ。

サディストが受難した場合はどうなるか? 彼らは対人的な関係性の中で、そのストレスを処理します。もちろん対物的であってもいい。おそらくそこには、それなりの倫理性や法則性があるだろうし、サディストが犯罪的というのは、ステレオタイプな見方なのかもしれません。

私が言いたいのは、人間は受難したら「頭を使う」ということです。そう、頭を使わざるを得ない。それに対して困難に縁のない人々は、頭を使う必要がない。俗に言う「平和ボケ」という奴です。結局、われわれ人間は、戦うことを止めてしまうと、しんしんと痴呆へ向かう運命にある。

受難、受難。「よいことばかり」の生活があったら! そんな生活なんて、どこにもあるわけないのに。でも、たまにはそうしたユートピアを夢想して、ゴロゴロしてもいいよね。受難、受難。今日もまた、サディストがマゾヒストをいじめる。サディストは溜飲を下げるが、マゾヒストも自己完結のプロセスの中で、密かに成長していく。そんな戦場にみな生きている。受難をほうばって、嚥下して、肥やしにして生きていく。われわれ人間がこの戦場で生きていくには、それしか方法がない。

受難はもうたくさん。もうのみ込めない。そうなったら、もう死ぬか逃げるかだ。できれば逃げよう。「逃避」は、ひとしお頭を使うね。思考停止は「死」である。いつでも頭は使いたいものだ。おお、受難、受難。人生にはおまえがいつも付いてくる。神様は恵みとともに苦しみも与えなさった。神様はたぶんこう言う「苦しみは、汝が『頭を使う』ために与えたのだ」と。受難、受難! 結局のところ、受難は学びなのだ。困難をちょっぴり警戒した口でほうばって、呑み込み、消化して、排泄しよう。そうして受難を肥やしにしていこう。

最後に。「よいことばかりの一年」という欺瞞を、私は憎む。アラフィフにもなると、何かいいことに出くわすと「何か悪いことが付いてこないか?」と、妙な風に構えてしまう。もう「大きな口を開けてほうばる」年代ではない。そんな阿呆なふうに生きれるトシではないのだ。欺瞞には、それ相応の警戒を。受難と友達になれたら、人生楽しいかなと思ったりする。我、微笑み以て一握の困難を飲み干す、なんてね。人生後半になって、そんなふうに受難と付き合えたらいいなと思う、今日このごろです。