自分の感受性くらい自分で守れ、ばかものよ

突然ですが、茨木のり子という詩人をご存知だろうか? 7年前くらいに、Y新聞社のTさんから紹介された。今となってはどういういきさつだったか忘れてしまった。最近になってまったくの偶然で、友人のTさんがインスタに挙げてらっしゃるのをみた。こういうシンクロニシティって、僕はわりと重視する方です。この詩で、文章つくれないかな?と考えました。古い古い詩ですが「現代にありがちな軽さ」に対して、痛烈な諫めの言葉となっている。


ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが
ひよわな 志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

ここで言う「自分の感受性」って、なんだろうか? いろいろ考えたんだけど、やはり作中にもある「初心」じゃないかしら。もっとくだいて言うと「かつてあった自分の理想」ということ。理想って、時間とともに朽ちていくものである。あるいは変質していく。現実の生活の中で、人は「ぱさぱさに乾いてゆく」。理想は汚され、引きずり下ろされる。そうした悲劇は、歴史がちゃんと証明している。

僭越ながら思うんですが、「ばかものよ」というのは案外、自己批判だったんじゃないかと。茨木さんだって「限界のある人間」なんです。「しまった」と感じる瞬間はあったはず。そこで生じる羞恥と深い反省が、この詩を生んだという仮説、いかがでしょうか?

茨木さんは理想を継続するために何をすべきか、具体的に示しています。「みずから水やりをする」「しなやかさを失わない」「志はたくましく」「わずかに光る尊厳を護る」ということです。これらは上記の「仮説」に基づいて考えると、「自戒」を含んでいたんじゃないかと。まあ、勝手な想像ですが。ともかく、どれも生きていく上で、大事なことだと思います。朽ちていく運命に抗うために必要なこと。

軽薄短小の現代を、僕は呪う。人のせいにばかりして、自分を省みない人たちを、呪う。自省のない人間には、けっきょく成長などあり得ないのだ。そこには、欺瞞とか無関心、そして怠惰がクダを巻いている。毒にも薬にもならない世間話も、そこに付け加えよう。とにかくそこには「深み」がない。「ばかものよ」と言ってくれる先人を、僕はありがたく想う。人のせいにせず自分の問題として悩み、耐えて、大きな一歩を踏み出す。軽い現代には合わない生き方かもしれないけど、僕はそういう生き方のほうが好きです。世間話もできないブキッチョですが、僕は自分の感受性を守って行きたい。以上、茨木のり子さんの詩をネタに、ちょっと語ってみました。