女は男に比べてネイティブな嘘つきという説

すべての女性には、噓をつくための特別な独立器官のようなものが生まれつき具わっている。

村上春樹の短編「独立器官」の中にある言葉です。このいささか棘のある言葉は、個人的に本作の「核」だと思っている。たぶん村上さん、リアルな生活の中で、痛い目に遭ったんじゃないかしら?なんて邪推してしまう。まず参考までに、あらすじを記しておきます。

渡会は52歳の美容整形外科医。六本木でクリニックを経営している。筋金入りの独身主義者で、ガールフレンドには事欠かない。女性との知的な交わりを楽しみ、セックスはあくまでもその延長線上。大きなトラブルになることもなく、いわゆる「技巧的に」生きてきた。そんな彼が、恋に落ちてしまったのだ。相手は16歳年下の女性で、結婚していた。子どもも一人いた。付き合うようになって、一年半になる。彼女は離婚するつもりはない。切なさに懊悩する渡会。ときに衝動的な怒りのような感情におそわれる。それから数ヶ月して、彼はついに衰弱死してしまう。食べ物がのどを通らなくなったのだ。実は、相手の女性には第三の若い男が存在していて、渡会は体よく利用されたのだ。彼はその「怒りを」自分に対して行使した。心の底から揺さぶられる嵐のような「吸引力」を知って、ある意味で彼は人生の真実を味わったのかもしれない。


村上さんは件の「独立器官」のことを、さらに詳述している。

どんな噓をどこでどのようにつくか、それは人によって少しずつ違う。しかしすべての女性はどこかの時点で必ず噓をつくし、それも大事なことで噓をつく。大事でないことでももちろん噓はつくけれど、それはそれとして、いちばん大事なところで噓をつくことをためらわない。そしてそのときほとんどの女性は顔色ひとつ、声音ひとつ変えない。なぜならそれは彼女ではなく、彼女に具わった独立器官が勝手におこなっていることだからだ。だからこそ噓をつくことによって、彼女たちの美しい良心が痛んだり、彼女たちの安らかな眠りが損なわれたりするようなことは──特殊な例外を別にすれば──まず起こらない。



これ、医学的にいうと「解離」のことを言っているんだと思う。嘘を駆使する別人格が、すべての女性の中に潜んでいるというか。その「嘘」に罪悪感がないとなると、これは男性側としては警戒せざるを得ない。おそらく未熟な女性ほど容易に解離しやすく、嘘の数も増える。しかし、十分に社会化された女性でさえも、ここという場面において、その罪な解離を起こすのだろう。顔色ひとつ変えず、声音ひとつ変えず、彼女はそれをやってのける。だって独立器官ーー別人格ーーがやっているんだから、彼女は嘘をついていることに気づいてさえいない。

「すべての女性」という表現を村上さんはしているが、僕の思うに「女性らしさ(フェミニン)」という言い方も可能だと思う。フェミニンの裏側としての属性。だから今はやりの「フェミニンな男性」は、上手に嘘をつくんだと思う。まあ昔ながらの唐変木な男性は、嘘はつきにくいでしょう。ついたとしてもすぐばれる嘘だ。そうして彼らは、常にだまされる側なのである。渡会はあまりにも表層的、技巧的に生きてきて、女性のそうした裏側を想像できなかった。しなやかそうで唐変木だったのかな。

女性にとって解離とは、一種の「逃げ場」じゃないかと思っている。特に男性より弱い立場にある女性は、そうした逃げ場に隠れて「生をつなぐ」のだ。そう「うそも方便」という格言にあるように、必要悪としての嘘はそこらじゅうに溢れている。おそらく社会的、人格的に十分に堅牢な女性は、解離しなくなるだろう。それはまさに、その女性に「男性」が形成されたからだ。フェミニンの退縮。

女性は村上さんの言う「独立器官」をもって、今日も戦う。そう、これは兵器なのである。男性はそれに対して十分な警戒が必要だが、あまりにも敵視しすぎるのは大人げないかも。女性ってそういうもんなんだと認めてしまうことが、むしろ格好いいんじゃないかって。成熟した男性は、そうした包容力を持ちたいもんですね。以上、村上春樹の短編をネタに、文章こしらえてみました。