【追悼】お義母さん、安らかに

<まえがき>

突然ですが、さる2月11日に義理の母が亡くなりました。本当に急なことで、当時はバタバタしたのですが・・ 以下の文章は、亡くなられて数日以内に書いたのですが、よく考えたら家族葬なんですよね。できるだけ内々に済ませて欲しいという故人の願いがありました。なので、四十九日が過ぎた本日、ひとつの節目として公表ということにいたします。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「お母さんが急変したって!」


2月10日(日)の夜10時半くらいだっただろうか。妻が病院からの電話を切って叫んだ。お義母さんは4日からO病院に、めまいで入院していた。めまいや嘔吐はかなり改善していたが、目下の問題はせん妄となっていた。このために妻は10日にも、病院に二往復していた。すでに疲労困憊。そこへ決め手の追い打ちである。取るものも取りあえず、着の身着のままで車で病院に向かう。私はてっきり迷走神経反射かなんかで、向こうに着いたら「あら、どうしたの?」みたいな拍子抜けを想像していた。まあ、まさかね。


現地に着いたら、そこは修羅場だった。間違いなく心肺停止した後の処置だった。お義母さんのお顔は、すでに生気がなく、死線を彷徨っている状況を読み取れた。まず浮かんだのは「なんで?」ということ。この「なんで?」については、医師も首をかしげておられた。ちなみにこの時の当直医はO病院の院長さん(K先生)なんだよね。院長がふつう当直やるかよ? T州会系では、こういう現象があるんだなぁ。でもK先生は誠意をもって対応された。私も医師なので「原因が解らない症状」があるのは十分に理解できる。

蘇生について「やめるかどうか」の判断を訊かれた。自発心拍はある状態で自発呼吸はない。なにより急変なので、やはり諦めるのには早い気がした。「できるだけのことはして下さい」と回答した。それは親族の総意だったと思う。やがて自発呼吸も再開、挿管、CVカテ挿入、昇圧剤開始、人工呼吸器接続など。心拍数は180くらい、血圧85くらい、SP02 65%くらい、意識レベルJCSⅢ-300。ひとことで言えば、絶望的である。お義母さんは常日頃から「チューブや機械に囲まれて死にたくない」と仰っていた。この状況はまったく本意ではなかったが、急変の原因が分かっていない現状、ある程度は仕方ない。

長い夜がやってきた。私は医師として、病院側との折衝を担当した。お義母さんを取り巻く、いくつものパラメーターを管理すること。絶望的とは思うが、意識が少しでも回復したら! それは親族一同の強い希望だった。まず気になったことは、気管チューブや胃管からの出血。点滴をみたところ、二本とも透明である。これは止血剤(アドナなど)が入っていないことは明白。K先生のうっかりかな?と思いつつ、看護師に告げた。病院側の不備をツッコもうとすれば、きりがない。でも私は医者なので「医療の限界」も分かっている。医療は万能ではあり得ない。院長が当直をする病院で、重箱の隅をほじくるような指摘をしても、どうにもならない。よけいな疲労が増すばかりだ。

止血剤を入れてから、SPO2は80%くらいに上昇。心拍数は120くらい。血圧は変わらず。意識レベルは、相変わらずⅢー300。気管チューブや胃管の出血は、ほぼ無くなっていた。午前4時ごろだったか? いったん一階待合室の長椅子で横になる。まあ、こんなのは屁のつっぱりみたいなもので。長期戦になるかなーとか、ため息をつく。看病する側がくたばっては、身も蓋もない。どこかでちゃんと休まないと・・

ふと頭に閃いた仮説。もともと肺血栓塞栓症の可能性は考えていた。そのショックでARDS(左肺のびまん性のすりガラス影)、ついでDICの傾向(血小板がやや減少、PTとAPTTの著明な延長)からの易出血性。特に打撃だったのがARDSによる換気障害。まあ、真相は闇の中だけど。

やがて朝となる。6時頃だったか、SPO2は87%程度、心拍数は80~100程度。血圧は変わらず。お義母さん、頑張っておられる。それはまさに「死と向き合って闘っている」姿だった。苦闘っていうかな。見守っている側が、ちょっと切なくなるくらい。でもこちらは、見守るしかない。もどかしい。

コンビニでおにぎりを買って食べる。やがてSPO2は90%になっただろうか? 心拍数も70~90代くらいだったように思う。これは安定している、長期戦だ。8時にいったん自宅へ戻ることにする。ちょっとベッドで仮眠して、必要物品を持って病院に戻ってこよう。タクシーで息子と二人で自宅へ。息子は体調不良で、そのままベッドへ。かなりしんどかったようだ。私もいったん寝ようと思って、衣服を着替えていた。そこへiPhoneに妻からメールが入る。

「こっちはレートが落ちてきて血圧測定不可になってきました」

「自発呼吸もなくなってきた」


私は焦った。とんぼ返りで病院に戻るしかない。栗東駅前に一台、タクシーが上手い具合に停まっていた。それに飛び乗って、O病院に駆けつける。間に合ってくれよ!と心のなかで念じながら。しかし次の瞬間「今亡くなった」と短いコメントが入った。私は天を仰いだ。死亡時刻は8時55分。

自分の見通しが甘かったことに愕然とした。長期戦なんかじゃない、死はそこに迫っていたのだ。病院でお義母さんと対面する。その表情はとても穏やかだった。苦闘が終わり、平和がお義母さんを包んでいた。私はその表情をみて、ホッと一息ついた。約10時間の苦闘、勝ち目の少ない闘い。間違いもあったかもしれない。でも今はすべて流そう。それがお義母さんの望みじゃないかな。病院側もしっかりやっていただいた。K院長先生、ありがとうございます。看護もしっかりしていて感心した。ありがとう。

お義母さん。優しくて笑顔のよく似合う人だった。人に何かをしてあげるのが好きな人だった。私なんかは、毎年誕生日にいろいろいただいた。うちわ、筆立て、星野富弘の絵はがき、いろんなお菓子。いろんな表情はお持ちだったと思うが、私は笑顔しか覚えていない。いろいろありがとうございます。安らかに眠って下さい。合掌。