父(87歳)がカローラを廃車にするとき

父について、語らせてください。僕には87歳になる父がいます。とくに大きな病気もなく過ごしていますが、米寿を控えた現在、やや「年齢的なしんどさ」も垣間見られる。父は舞鶴に生まれ、車と大きく関わって生きてきた。20代で出光興産に入職し、ガソリンスタンドで地道に働く日々。僕の家庭の経済は、間違いなく父の「血と汗」によって支えられていた。父はいつも弱音は吐かなかった。耐える姿はまさに、昭和の男を象徴していたように思う。僕はずっと、そんな父の背中をみて育った。

父は僕が舞鶴の小学校に通っている頃、小さな車を所有していた。でも、事故(だったと思う)を起こしてから、車に乗ることはなかった。たいていオートバイだった。でも、車にしろオートバイにしろ、父は運転がすごく好きなんだな、ということは子どもながらに感じていた。

一方、僕は大学に入って自動車教習所に通ったのだが、いい思い出がほとんどない。卒検に落ちたときは、ホントに凹んだ。医師の卵だからといじめてくる教官に、もう一度会うのが情けなかった。そんなわけで、免許を取得するころには、おおかた「車の運転なんかするもんか」と思っていた。周囲を横目に、車への興味も失せていった。


転機は医師三年目(1994年)で、舞鶴の病院に派遣されたとき。いわゆる「里帰り人事」だった。そのころ僕は、診断がつかない精神疾患に振り回され、やや自暴自棄になっていた。僕の両親が舞鶴への異動を全面的にバックアップしてくれた。その一環として、父は車を調達していた。トヨタ・スターレット。もちろん最初はすべて父が運転していたが、国道27号(だったと思う)の交通量が少ないことを見越して、僕に「どや、運転してみいよ」と勧めてくれた。僕はおっかなびっくりでハンドルを握った。教習所で習ったクラッチ付きじゃなく、オートマチックだ。最初は怖かったけど、次第に運転することの快感に目覚めていった。目の前の変わりゆく風景を眺めながら、ハンドルを切るという行為。そのときはずっと時速40kmくらいで、ちんたら走っていたので、後続の車には申し訳なかったけど、舞鶴に向かいつつ「世の中にはこんな楽しみもあるんだな」と啓蒙されていた。

舞鶴では、そのスターレットが縦横無尽に活躍した。後輩にフロントミラーについて揶揄されたときも、僕自身は時代おくれな人間なので、あまり気にもしなかった。まさに愛車だった。父も舞鶴での三年間を、そのスターレットと共に楽しんでいたと思う。運転のイロハを、父から学んだ。例えば、車対車の接触事故で、どうふるまうべきか。ちょっと天狗になっていた頃だったので、父が冷静に対応しているのをみて、ちょっと尊敬したり。

その後、中古のカローラを経て、2002年の3月に新車のカローラを購入。父としては、初めての新車だった。父71歳、たいそう嬉しそうだった。その後、僕は2003年に結婚して滋賀へ移る。カローラの名義は父のものとなった。謎の精神疾患のために、両親にはたいへん心配をかけた。だからカローラを譲渡することは、まったく自然な流れと感じていた。

あれから16年経過して、父は87歳。元気な老年として70代を駆け抜けた父だが、さすがにトシである。85歳を過ぎる頃から、ことあるごとに「免許の返納」をうながす。母も「ヒヤッとする父の運転」を語るようになる。そのたびに父は「そんなことない」と語気を強める。でも・・87歳という高齢を自覚したのだろう、今年いっぱいでカローラを廃車にすると宣言した。

父の哀しみはいかほどだろうか。運転するという「自由」を手放すということ。高齢ドライバーの事故で、日々いろんな人が死んでいる。そりゃ、止めなければいけない。潮時というのは、どうしたってある。正論は父をさいなむ。父は哀しいだろうし、悔しいだろう。がっくりだろう。僕は息子として、同情するしかない。そんなとき、ふと思い出す情景がある。僕が体調の悪かった頃、家族三人で舞鶴へドライブして、魚釣りをして大漁だった想い出とか。あれは中古のカローラの頃だったか。大きなキスとかアジとか。あれは楽しかったなぁ。カローラを廃車したあと、父とそういった想い出を語り合いたいと思う。老年の人々は、このようにして「招かれざる節目」と折り合いを付けていくのだ。少しでもその痛みを、家族でわかり合えたらいいと思う。