著書「夜と霧」で有名な心理学者、ヴィクトール・フランクルが、こんな事を言っています。
幸せは決して目標ではないし目標であってもならない。そもそも目標であることもできません。幸せとは結果にすぎないのです。
みなさんは、どう感じられるだろうか? 僕なんかは、すごく違和感を感じました。なんでそういう考え方が発生するんだろう? 違和感ゆえに、すごく興味がわいた。この言葉のベースになっている理路を、なんとか発掘したいと思った。
根本的なことを確認。「幸せ≠快」ということです。確かに「快」により、幸せは生じうる。しかし、それは継続するとは限らない。なぜなら、人生とは「山あり谷あり」だから。フランクル先生は、人生はお気楽な道のりではないよ、と言っているのです。現代に「強制収容所」は無い。しかし、現代社会そのものが、ときに空虚で閉塞感にみちた、渇ききった世界ではないだろうか? あたかも「強制収容所」のように。つまり生きるとは、それそのものが苛酷だと言いたいわけです。
「快」を突っ走ると、そこには破滅が待っている。「快」ばかり求める人の背中には「スジ」が通っていないから。山あり谷ありの人生の中、谷に入ったとたん、彼らは砕け散ってしまう。なんと脆い。フランクル先生は強制収容所の生活の中で、そうした「運命に左右されやすい弱い人間」を、ずっと観てきた。背中に「スジ」が通っている人は少ない。しかし、彼らは苦境のときに耐えることができる。スジとは? ☞ 使命感、生きる意味を知っていること。なぜ生きるのか、普段からしっかり考えている人。そうした人だけが、きびしい運命に抗って、毅然と生きることができる。
幸せはどうやって捕まえる? 幸せは追えば追うほど、手からすり抜けて逃げてしまう。幸せは、利己主義からは発生しない。飽食からも発生しない。フランクル先生は、たぶんこう考えていたと思う。「与えることによって、幸せになりなさい」と。宗教的に言えば、愛に基づいて生きること。忘我の中に、幸せは自ずとやってくると。他から侵されない「スジ」に則って生きるかぎり、その人は運命の誘惑や試しや折檻にも耐えうる。そうして、最悪なときにさえ「幸せ」は残りうる。それは「希望」という形で。
希望は決して消えない。背中に「スジ」がある限り。逆に「スジ」が無い人は、苛酷な状況になると「絶望」するかもしれない。やっぱり人間って、谷底まで落ちたときにどう思うかじゃないですかね? 「もうだめだ」と思うか「まだ生きてやる」と思うか。あるいは「まだ生きる余地がある」と思うか。すべては「スジ」が、その生きる意志の強さを生み出している。そうして、無我のなかで生きるうちに「幸せ」は自然と寄り添うんだと思います。以上、ヴィクトール・フランクルの言葉からインスパイアされて文章こさえました。
※「ショーシャンクの空に」という映画(原作スティーブン・キング、監督フランク・ダラボン)がある。腐敗した刑務所の中で生きる人々を描いているが、フランクル先生の収容所とよく似た描写だと思う。主人公のアンディは、ぼんやりしているようで「スジ」の入っている男です。彼も「希望は決して消滅しない」と語っています。興味のある方は、どうぞ。