「遠い太鼓/村上春樹 著」を読んで

遠い太鼓に誘われて 私は長い旅に出た

古い外套に身を包み すべてを後に残して

(トルコの古い唄)


本書は長い紀行文である。私なんかは本をちびちび読むタイプなので、正直、後半はだらけてしまった。こういう本は「ざくざくっと」読まないといかん。主な旅行地は、ギリシャ、イタリア、オーストリアなど。旅行というか、村上さんご夫婦の場合は、ちゃんと「住む」。その中で例の「ノルウェイの森」と「ダンス・ダンス・ダンス」が生まれた。村上さんはその間、37歳から40歳になった。これはなんと、今からざっと30年前のことです。


冒頭の唄の「世界観」は、おっさんならやはり憧れるかもしれない。「古い外套」という枕詞が、それを示している。若い頃に着た外套を、ふたたび羽織って、外の世界に出て行くということね。「すべてを後に残して」・・ああ、なんという魅惑的な言葉なんだろう! おっさんはこうした言葉にワクワクしてしまう。イケナイこととは知りつつも、あれこれのしがらみをばっさり切り捨てて、長い旅にでるという桃源郷。

ただ、ホントに旅に出るとなると、これがまた大変。言葉は通じないし、文化も違うし、窃盗に遭うし、天気が悪かったり、レンタカーがクソだったり。まったく桃源郷などという言葉で済まされるような塩梅ではありません。それはまさに「対決」であり「緊張」であり「不快」なのである。だから「長い旅にでる」というのは、ある意味でマゾヒスティックな行為なのでは?と思ってしまう。というか村上さんは、確かにMだと思うし。

ルーチンワークを何十年もつづけると、そのルーチンに埃がかぶってくる。そこに幻惑としての「遠い太鼓」が立ち現れる。こういう感覚は、おそらく普遍的なものだろう。でもそこでホントに「蒸発」しちゃったら、そこには廃墟しかない。だからリアルな人々は、こうした紀行文を読んで密かに「甘いうずき」を感じて、妄想にふけるのだ。でも、ルーチンとはまったく違う思考をしたい、というまっとうな欲求は認めてほしいですけどね。

旅って、楽観論にもとづく行為だと思うけど、どうでしょう? 若い頃、香港にいくときに「地球の歩き方」で「必要物品は、ほとんど現地で調達すべし」みたいなアドバイスがあったりして、心躍ったものだ。やはり旅は、荷が軽いほうがいい。現世的なしがらみを捨てて、身を軽くして、外の世界に飛び出す。我々アラフィフのおっさんにとって「荷が軽い」とは、なんと魅力的な言葉だろうか。何も分からず香港にいった「あの頃」に戻ることはもうできないけど、あの頃の「身の軽さ」を想いだしてノスタルジーに浸ったり。人生って、いつの間にか「悲観論」に征服されてしまう。それは大人になったという証だけど、たまにはその堅い殻を突き抜けて、外に出てもいいんだと思う。

最後に、村上さんの言葉で〆とします。旅という行為について、本質を突いていると思います。

僕には今でもときどき遠い太鼓の音が聞こえる。静かな午後に耳を澄ませると、その響きを耳の奥に感じることがある。無性にまた旅に出たくなることもある。でも僕はふとこういう風にも思う。今ここにいる過渡的で一時的な僕そのものが、僕の営みそのものが、要するに旅という行為なのではないか、と。

そして僕は何処にでも行けるし、何処にも行けないのだ。