がさつなおいら+几帳面な私 → 実体としての僕

おいらは「がさつ」な野郎です。自分でも分かってるんだけどね。50歳になった今も「がさつ」は直らん。要するに田舎者なんだな。おしっこはやたら便器を外してしまうし、食事もボロボロこぼすし、寝床に鼻クソは落ちてるし。そうそう、写真を撮っておいて後で配るのを忘れる(いるでしょ?)野郎です。おいらホントに50歳なのかな?と、たまに自分でも哀しくなるわけです。

妻は「がさつなおいら」を、いつもカバーしてくれます。そして叱られる。妻はいつもちゃんとしている。これ、永遠に彼女には届かないんだろうと思う。彼女の「ちゃんと」には、筋金が入っているのだ。だから、おいらが自信のないときは、たいてい彼女に「これはこれでいいんだろうか?」と訊いている。彼女はもはや社会常識の鑑なのだ。


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私は申し訳ないが「几帳面」な人間です。モノが多かったり、ごちゃごちゃしているのが嫌い。机の上はつねにこざっぱり。余計なモノはどんどん捨てる。電子化という手法は、几帳面な人間にとっては朗報である。スペースをとる文書を片っ端から電子化して「ないものとして」扱うことができる。エッジが効いてるって? なんかキザでごめんな。

几帳面な私は、仕事を愛せたら愛したいと思っている。自分の仕事にプライドがあるので、手抜きは一切しない。困ってる患者さんがいたら「なんとか力になれないか」と頑張る。話し好きの人にも、可能な限り合わせる。私の医師としてのスキルは、未だ山麓である。勉強は全然足らない。体調の悪いと

きでも「最低限のライン」は、きっちり仕事をしたいと思っている。



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僕は結局のところ、がさつだけど几帳面なのである。ええかげんだけど、きっちりせんと済まん。人間って長く生きてると、知らず知らずにこうした「陰と陽」が出来上がってしまう。実をいうと、もともと僕は「がさつ」な生き物として育ちました。それは実家の家風が、がさつだから。悪く言えば、社会性に疎く、繊細さに欠けていた。でも僕は、両親のことを恨んだりはしません。おおらかに育って、それはそれで良かったと思ってる。人生なんて「それはそれで」の連続だと思うんですよ。いちいち恨んでたら、前に進まないし。

がさつな「青年まるちょう」を鍛えたのは、やはり仕事です。仕事という厳しいオヤジは、手を抜いたらすぐに拳骨をくらわせてくる。本当に「いい仕事」をしようとしたら、それは「がさつ」ではダメです。とことん細かいところにこだわって、それこそ「几帳面」でないといかん。もちろん「きっちり生きる」という側面においては、お蝶夫人♪も僕を大いに鍛えてくれました。ずいぶん叱られてきたけど、そのおかげでそこそこ成長はしたと思う。夫婦というのは、性質の違う人間が一緒に生活すること。僕はずっと自分の「がさつさ」を恥じてきました。この「恥の感覚」は、結婚しなかったらあり得なかったものだ。

だから仕事とお蝶夫人♪には、とても感謝しています。仕事も結婚生活も、続けていくということにおいては困難なものです。しんどくなった時も、うんと乗り越えて、ひとつ学ぶ。学んで「がさつ」と正反対の「きっちり」をほんの少し獲得する。そこで大事なのは、たぶん「辛抱」と「素直さ」だと思います。そうして人間は学習するのです。

人間って、高みにある人ほど矛盾を抱えていることが多いと思う。それはたぶん「自分のダメなところ」とずっと闘っているからだと思うのね。ダメなところに気づいて、それを乗り越える。それを継続してできる人は「矛盾を抱えて泰然としている」ようなところがあると思う。逆に矛盾が少なくなってきたら、それは「人生下り坂」ということじゃないかしら。そういう論法でいくと、僕のような矛盾のある人間は、褒められていいのかもしれない。おしっこを便器から外して嫁に怒られる。「またやってる~」 そうして恥辱にまみれて、僕はまた学ぶのだ。寝起きは「息子」をしっかり伸ばして排尿しよう。がさつにさよなら、きっちり生きよう。そうしている間は、まだ登り道だ。以上、久々にエッセイみたいな文章をこしらえました。