あなたは神を信じますか?

アノスイマセ~ン、アナタハ神ヲシンジマスカ~?


京都駅近くの路上で、こんな風に外人さんに声をかけられたら、あなたはどうしますか? たぶん、そそくさと走り去るだろうね。路上で立ち話するには重すぎるテーマだし、どうせ新興宗教の紹介とかだろうし。でもちょっと待って。「自分が神を信じているかどうか」というテーマは、一度は突っ込んでおくべき問題だと思うんです。宗教や信仰という根源的なものと、自分という個人の位置関係。

昨年春から今年の春にかけて、苦労して「カラマーゾフの兄弟/ドストエフスキー作」を読了した。この大作は、一回読んだくらいでは、凡人たる私の方を見てくれないだろう。ただひとつ、どうしてもひっかかるので三回読み直した箇所があるのね。「大審問官」という部分で、本作の前半における核となる箇所。カラマーゾフ家の次男イワンが、三男のアリョーシャに聴かせる非常に長い科白。イワンはインテリだが無神論者であり、アリョーシャは純真な修道僧である。つまり立場としては真逆なのです。酒場でイワンがアリョーシャに滔々と話して聴かせる「大審問官」は、ある意味アリョーシャに対する挑戦状だったかもしれない。イワンはそれほど、アリョーシャという弟の存在を認めていた。


まるちょうは神を信じるのか? 本作を読んで、それを一番考えました。俺はいったい神を信じているんだろうか? 私は無宗教です。特定の「神」は信じていません。でも・・イワンが語る「大審問官」およびその前後の文脈を、許すことはできない。まったく容認できない。つまり私は、アリョーシャ派ということになります。イワンのひたすら懐疑的な態度がうっとうしい。「大審問官」は、要するに神の否定です。老審問官が、復活したイエスに「おまえは邪魔だ」と言い放つ物語詩です。「神の否定」を寸分の狂いもなく、論理的に描いたもので、極めてよくできている。イワンはアリョーシャを、論破したかったんだろうね。イワンの思想の一端を垣間みれる箇所を引用します。

この話のことは、おれもくわしくメモにとった。父親は、木の枝にこぶがついているのを喜んで、「これなら効くだろうな」などと口にして、やおら実の娘の「仕置き」にかかる。おれにはようくわかるんだ。鞭をくれるたびに性的な快楽、そう、文字通り性的な快楽を覚えるくらい熱くなっていく連中がいることをね。そうなるともう、鞭をひとつ加えるたびにやつらの快楽はどんどん高まり、進行していくというわけだ。



人間の多くがある特別な性質をもっている。それは、子どもの虐待を好むという性質なんだが、それも相手は子どもに限るんだよ。当の虐待者たちっていうのは、他のすべての人間に対しては、教育のある人道的な西欧人みたいな顔して好意的で優しい態度をとるんだが、子どもを苦しめるのが無性に好きときている。その意味では、子どもそのものを愛しているとも言えるのさ。



イワンの論理展開というのは、大抵こういう具合です。そこには「避けられない真理」が含まれる。それは「現実」という名の汚物・・人間の弱さ、暴力、貧困、等々。いくら高い理想を掲げて人類の調和を謳ったところで、それはおとぎ話に過ぎないんじゃないかという立場。上記の文脈で言うと「愛しているからこそ、虐待する」という構造を、冷徹にとらえている。その根底に流れる懐疑主義は、モノをえぐり出すナイフのような切れ味である。ただ、見なくていいものを見てしまうという欠点はあろうかと思う。結局、彼は幻視症にかかり、精神を病むこととなる。やっぱ、健全ではないわな。

最後に。我々を操っている大きな、見えざる力。それに対して、どういう感情を持っているか。私は率直に言って「感謝の気持ち」を持っています。運命という厳しくて重い、容赦ない「仕打ち」を、自分の一部と捉えて容認してしまう。これって結局のところ「信仰」じゃないですかね? つまり私は「神を信じている」わけだな。イワンより、断然アリョーシャ。私はイワンのようには疑いの眼を向けられない。原則的に素直な直感で運命と対峙したい。以上「あなたは神を信じますか?」と題して文章こさえました。