プレゼントをもらったら、すぐ開封しますか?

映画なんかでよく出てくるシーン。友人からプレゼントを渡されて喜ぶ主人公。彼はすぐその場で包装を破り始める。そしてプレゼントを開封して笑顔で「ありがとう、嬉しいよ」と伝える。この一連の流れが、私にとってはなんか馴染めない。たぶんこれって欧米流ですよね? でも渡す側にとっては、やっぱり嬉しいだろうなと思う。すぐに「プレゼントに対する反応」を観察できるから。

私はプレゼントをもらった時に、うっかり放置してしまう人です。この悪癖は嫁によく怒られるんだけど、なかなか治らない。なんでこうなるのか? ひとつは自分がルーチンを愛する人間だから。ルーチンの中で活動している人間にとって、プレゼントという外部からの干渉は、悪い言葉でいうと「ルーチンを攪乱される」という意味合いがある。ついつい、もらったプレゼントは横に置いといて、自分の目の前のことをこなそう、となってしまう。


もうひとつの原因は、私がミニマリスト(の傾向あり)だから。基本的にたくさんのモノや情報は、混乱するのでイヤなんです。雑誌はほとんど読まない。日経メディカルを毎月とAERAをたまに。あとはたいてい文庫本です。買い置きの本やDVDも、いいところで処分しようか、などと思案してしまう。だって一般、冷めたピザは捨てるでしょ? 最近は読書をKindleでやっているので、買い置きの紙媒体の文庫本はかなり処分できるんじゃないかと見積もっている。DVDも要らんの多い。そのうち大胆なリストラを敢行するかも。DVDを観る場合でも、たいていは新規に取り寄せて観ることが多いし。

つまり持ち物が増えることについて、微妙な感情が生まれる人なんです。手放しで喜べないというか。だから「失礼なる放置」という現象が起きてしまう。それは「いただいたモノ」をこれからどういうふうに自分の生活にいかしていくか、そして必要ならどれをその代わりに捨てるか(全体数が増えるのはイヤ)・・ そうした諸々を考えるプロセスが、結構しんどかったりする。「微妙な感情」というのは、そういうことです。つまり「あ、また新たな問題提起やん~」みたいな。

ルーチン愛とミニマリズム。これをひとつの言葉で表現すると「殻」ということになるか。そう、私は殻に閉じこもったヤドカリみたいなものです。ヤドカリには愛のこもったプレゼントは馴染まないのかもしれません。でも私は結婚しています。その視点からは、ヤドカリでいることは許されません。いつも嫁は私の「殻」をコンコンとやります。「本当にそれでいいの? やっぱりダメなんじゃないの?」と。

「殻をコンコン」する行為は、ヤドカリとして安逸に暮らそうとする私にとって、たいてい不愉快であり、苛立つこともあります。でも私は結局のところヤドカリではなく、ちゃんと人間なんです。最低限、人間であろうとする努力を怠ってはならない。何より、この「殻コンコン」は愛なのである。世捨て人のような私を、社会へ連れ戻そうとする嫁のコミット。こんな私に、もったいない。

最後に。相手からいただいたプレゼントは、ちゃんと開封して中身を確かめよう。それは社会に生きる人間として、たいせつな礼節。そうして笑顔で「ありがとう」と言えたら、私は一個の人間たりうるのでしょう。こうした嫁の「教育」は、だいたいにおいて正しい。悔しいけど、正論です。だからそういう時、素直に学びます。もちろん過去には、キレるときもありました。愚かなヤドカリという暗いプライドが増長した瞬間です。でも、それは間違いです。みなさん、正しいと思える考えについては、ちゃんと耳を傾けましょう。殻コンコン、それは愛。