ふたつの「自由」について考えてみた

みなさん、自由は欲しいですか? この「自由」というシロモノ、捕まえようと思ったら、我々の腕をすり抜けていく。あっかんべーをされているようで、悔しい。だいたい「自由」というものは、実体がない。ただ「今、オレは自由だ」と感じる瞬間はあるわけね。その時の爽快感、万能感、充実感・・ これは人生において、何者にも代えがたい感覚だと思う。生きる喜びのひとつは、自由という「よく分からないもの」を追い求めていくプロセスなのかもしれない。じゃあ、自由って結局なんだろう?

「自由」を英語で表すと「liberty」と「freedom」の二種類がある。この二つの言葉の成り立ちを考えてみると、ちょっと面白いかもしれない。極私的な見地から、ふたつの「自由」について連想される言葉を書き出してみます。

liberty

勝ち取った自由、~からの自由(解放)、左脳的な自由 思考や努力との関連、個人的なイメージ、高みに登ろうとする力、ベクトルがある、大人的、独立心、客観的

freedom

自然発生的な自由、~への自由(統合)、音楽と親和性が高い、右脳的な自由、瞑想との関連、集団で伝播する力、漂う自由、ベクトルがない、子供的、隣人愛、主観的


自由は山巓の空気に似ている。どちらも弱い者には堪えることはできない。

(芥川龍之介)


これは明らかに、libertyのことを言っている。高みに登る労苦、困難。それを乗り越えて感じられる晴れ晴れとした達成感。libertyは、高みから見下ろす快感に似ている。libertyの背景には、ヒエラルキーを登っていこうとする力がある。つまり社会的な感覚だと思う。自由の女神(Statue of liberty)なんか、その典型だよね。その反面、労苦に耐えられないと、例の電通の女子社員のような悲劇が起こる。libertyは宿命的に「厳しさ」を要求するのだ。

瞑想はいわば精神の休日である。そして精神には仕事と同様、閑暇が必要である。

(三木清)


これはfreedomのことを言っていると思う。freedomに社会性はない。ヒエラルキーの最下層でもfreedomは味わうことができる。なぜなら、それは「心の状態」だから。libertyよりもずっと甘口である。freedomに毒が混入すると、麻薬という人間を駄目にするシロモノができあがる。まあ、健全に脳内麻薬がでる状態は、まっとうなfreedomである。瞑想は自分の心にfreedomを生成する、シンプルな方法です。ひとやすみ、ひとやすみ。

おそらく、どんな人も生まれてから何らかの「鎖」に繋がれていると思うのね。その「鎖」に気づいて、それにあらがう時期ってあると思う。もしうまく「鎖」が外れたら・・ そこからその人の上昇が始まる。より高いヒエラルキーを目指して。もちろんこれはlibertyのことを言ってます。これは「人生の意味」とさえ言いうるかもしれない。でも「巨人の星」みたいに、いつも力んで生きてられないでしょう。そうしたときに、freedomをうまく自分の生活に差し入れることができる人は、賢いと思います。戦いとしての自由の合間に、癒やしとしての自由を差し入れること。やっぱ、バランスですね。以上「ふたつの自由」について文章こしらえてみました。