今日はどの仮面をかぶろうかな?

Blogで何度も語っていますが、私は対人恐怖症の傾向がある。なぜ人を怖れるんだろう? それは多分、人間の背後に「何か得体の知れないもの」を感じ取るからじゃないか。私がより緊張するのは、いわゆる「ちゃんとした」人たち。つまり、背広をビシッと着込んだり、化粧をビシッと決めたり、会議ではビシッと発言し、、 そういう格好よくて隙のない人たち。そんな「完成された」人たちに対して、すごく緊張してしまう。というか、畏怖に近いかな。なんか構えてしまうのね。

ただ、そうした「完成された」印象をもつ人って、なんらかの「仮面」をかぶっているという仮定はどうだろうか? 心理学でいう「ペルソナ」というやつね。社会的役割にもとづいた仮面をかぶることで、人間は安定をうる。ペルソナが研ぎ澄まされると、上記のような「完成された」印象を相手に与えることになる。ペルソナが立派すぎると、私はアレルギーを起こすのだ。その仮面の欺瞞を、ふと感じてしまうのかもしれない。

ここでビリー・ジョエルの「ストレンジャー」の一節を思い出して欲しい。

The Stranger/Billy Joel


Well we all have a face

That we hide away forever

And we take them out and

Show ourselves

When everyone has gone

Some are satin some are steel

Some are silk and some are leather

They’re the faces of the stranger

But we love to try them on

我々はみな永遠に隠し通す「顔」を持っている

独りになった時に、おもむろに「顔」を取り出して

自分で眺めるんだ

サテンのものもあり、金属のものもある

シルクのものもあり、皮のものもある

それらの「顔」は、自分以外の顔なんだ

でも我々はその「顔」を試着せずにはいられない

後半に出てくる「顔」とは、まさにペルソナのことだと思う。でもビリーは冷徹に言い放つ「それは自分以外の顔なんだ」と。じゃあ、自分の顔ってなによ? それは難しい問題だ。ビリーも正確にはそれを記述していない。「素顔」のことだろうか? 永遠に隠し通す顔が「素顔」だとしたら、、 それはかなり哀しいことかもしれない。ビリーという人は、世知辛い現代を歌わせたら天下一品である。素顔を表沙汰にできない時代。都会の息苦しさ。時代の先端というストレス。

あらゆる種類の仮面のなかで「素顔」という仮面を僕はいちばん信用しません。
(三島由紀夫)

個人的には「素顔」というのは、存在しないものだと思っている。例えば「自分の顔」を探すとしよう。みなさん、やってみて下さい。これ、結局どこかでわけが分からなくなると思うんですよ。私はむしろ、素顔とは虚無だと思っている。自分の顔(=自分の正体)というのは、もともとゼロなのだと。というか、虚無だからこそ「つくる」必要があるのね。それが仮面というわけです。仮面を「試着」するだけでなく、つくり育てること、これが人生じゃないかしら。

したがって、この世は仮面舞踏会みたいだなと思うわけです。TwitterとかFBなんかは、まさにそう。人間は仮面をかぶった方が、流暢に喋れるのかもしれない。独りになって仮面をはずしたとき、訪れる虚無を想う。それは哀しみか、あるいは安堵か。

「まるちょう」という仮面は、もちろん気に入っています。仕事でも家庭でもない第三の仮面を持てることに、感謝したいと思います。「まるちょう」という仮面は、ある意味「現実逃避」の役割があるのかもしれません。世知辛い現代において、避難所があることは幸いなるかな、なんてね(笑)。以上「今日はどの仮面をかぶろうかな?」と題して文章こしらえました。