うなぎ/今村昌平監督

「うなぎ/今村昌平監督」を観た。1997年公開の作品で、そのころ私はどん底の状態にあった。仕事は週一回のバイトをなんとかこなす程度。秋にはそれさえもできなくなった。そうしたいわば「絶望した」状態で、本作を劇場で観た。なんたって、カンヌで最高賞を獲ったというのだから、やっぱ観にいくだろう。時間もめいっぱいあるし。当時「いい映画だな」と、なんとなく思ったけど、今回もう一度しっかり観て、最後は涙が止まらなかった。号泣というのではなく、とても幸せな、心地よい涙。パルム・ドールは伊達じゃない、こう思いました。



主人公の山下拓郎(役所広司)という男が、まったく他人と思えないんですよ。妻の不貞を許せず、包丁でめった刺し。八年間服役し、仮出所の身で小さな理髪店を営む。極度の人間不信から、心の友は水槽の中のうなぎだけ。

この人、すごく善良で正直なのね。そして不器用。妻をめった刺しにしたのだって、それは愛の裏返しって奴ですよ。大好きだったからこそ、許せなかった。自分の気持ちを偽れなかった。同じく仮出所中の高崎(柄本明)は、彼の「清潔さ」をからかってこう言う。

ああわかった。おまえセックスが下手なんだ。下手だってえの。女房が浮気したら、そんな女くれてやるくらいの気になんなかったらどうすんだ。おまえのガキみたいなセックスが原因だよ。自信がねえんだよ。ベテランの中年男が自由自在に女房をころがしてんのを見て、狂ったように嫉妬して殺っちまったんだ。女房以外の女を知らねえクソ真面目な幼稚園のガキ!

やんちゃな高崎の言葉は、しかし本質を突いている。うなぎが唯一の友達となった山下は、おそらくセックスは下手くそだったに違いない。まるちょうだって、そう。セックスは下手くそだと思いますよ。ていうかね、セックスで女を満足させることに自信がないし、それほど執着もない。上手なセックスには、悪魔性が必要である。燃え上がる性交というのは、どこかに邪(よこしま)な要素があると思う。「善良で清潔なセックス」ほど、女にとって興ざめなものはないだろう。

妻をめった刺しにして自転車で自首に向かう山下。「夜霧よ~ 今夜も~ ありがとう~」と小さく口ずさむ。こうした異界にいるような「平坦さ」を持つ山下を、役所広司は見事に演じている。私もこうした妙な「平坦さ」を持っているように思う。この「平坦さ」って、本人も悩んでいるんですよ。「なんでオレってこうなんだろう?」と、いつも思う。特に人間関係において、抑揚が必要な時ってあるじゃないですか。そうした時に、ふと回避してしまう。視界には水槽の中のうなぎしかない。そうして、心の平安が取り戻される。

そうした「奇妙な平坦さ」にしぶとく干渉しようとしたのが、清水美砂演じる服部桂子。様々のいきさつあり、理髪店で山下と一緒に働く。彼女は山下のことが大好きなのだ。クソ真面目で不器用で、しかもそういう自分を呪っているところ。桂子はどんどん山下にアタックをかけるが、山下はすっすっとよける。でも桂子が指に大怪我をしたときは、意外なほどのコミットをするんだな。桂子も驚くほどに。自転車で二人乗りで診療所へ猛ダッシュ。これも私とよく似ていて、コミットするとなると、止まらないんです。たぶんこの時点で、山下は桂子のことをわりと好きだったに違いない。「平坦さ」が、ちょっとこんがらがってきたかな。

桂子は妊娠していた。相手の男は愛してもいない下衆野郎。堕ろすにも、すでに四ヶ月。どさくさの流れがあり、山下はその子を自分の子として育てる決心をする。つまり桂子と一緒になるということだ。ここも山下らしい不器用な決断なんだけど、この人はいったん決めたら変更はしない。けっこう頑固だったりする。この山下の「不器用な決意」を、桂子が女性らしい感じで確かめるシーンがある。お気に入りのシーンなので、載っけておきます。



不器用な山下は、頭に不器用な包帯を巻いて、ずんずん前に進む。視線もずっと前向きだ。桂子の動きに着目していただきたい。「堕ろしますから」とちょっと反対側をみる。これはとても女性的な問いかけである。ここで肯定されたら全てがおじゃんだけど、桂子は全身全霊をかたむけて、この「反語」を山下に投げかける。山下はこれまた不器用に「堕ろすな、生んでくれ」とだけ答える。ここの清水美砂の表情と間の詰め方が秀逸だと思う。たぶん監督の演出だと思うけど。

最後に。長い人生の中で「水槽の中のうなぎ」と友達になる時期があってもいいじゃないか。それはいわば、うなぎに護られているんだな。妻に裏切られて、深い傷を負った。それならば傷が癒えるまで、うなぎと友達でいればよい。人生の時間割が、そういう風にできていただけだ。退屈な性格の山下にも手痛い変節点がおとずれ、これから生まれる赤ん坊と共に「新しい山下」が形成されていくだろう。それはもしかして、なにがしかの「悪魔性」を孕んでいるかもしれない(笑)。そしてエンドロール。これが泣かせる。これはカンヌうけを狙った今村監督のアイデアじゃないかしら。簡潔にして素晴らしいラスト。以上「うなぎ」をネタに、語ってみました。