我(われ)を出すべきか、引くべきか

僕って「自分を出す」という姿勢が苦手です。もともとこだわりがない方だし、生き方の方向性みたいなのも希薄な人間だったので、出すべき「自分」がなかったのかもしれません。過去を振り返って考えてみると、どこかに「対人恐怖症」はあったのかと。「自分」を隠すことによって、人間社会からの確執を避けていた。これはまさに本能的に。これって、太宰治の「道化」とよく似ています。僕は家の中でも外でも、このように回避的に生きてきた。そうして、自我の弱い青年像ができあがった。

転機は結婚です。夫婦という「対等な人間関係」に身を置いたとき、初めて両目が開いた。家内と生活を築いていくプロセスで、どうしても「自分」を表明する必要がでてくる。それは一家の主としての責任である。こうして結婚生活の中で、ようやく「相手との本来あるべき対話」というのを実感したんです。夫婦間のせめぎ合いの中で、よりよい方向性が導かれる。ぶつかり合いの中から、お互いに納得したものがでてくる。

さて、最近「論語」についての雑誌を読んでいて、下記のような言葉に出くわした。孔子が30代で周の洛陽に留学していた頃。師である老子が、孔子を諭してこう言った。


賢く洞察力があるのに、死が間近い人は、他人の非難をするのが好きだからだ。また、博学で能弁、見識も広いのに危険な目に遭う人は、他人の悪事を暴くのが好きだからだ。人の子たる者は自我を捨てなければいけない。



要するに孔子は弁が立ち、見識も広く、他を圧倒するような「自分」があったんだね。論理的でやや他罰的なイメージ・・これはまさに西洋的な自我だと思う。老子は孔子の言動をみていて「この青年は敵を作りやすいタイプだ」と思ったのだろう。最後の「自我を捨てなければいけない」という言葉がポイントです。これ、ちょっと掘り下げたい。

「自分」をひたすら隠して人間社会と争わないという方法論。これは太宰のいう「人間失格」に他ならない。要するに「廃人」としての生き方である。僕の独身時代なんかは「廃人」に近いものでした。結婚生活を通して、ようやく「真人間」に一歩近づいたというわけです。まっとうな自我を持つということ、これは当たり前の権利であり人間としての責務でもある。でも・・その我と我がぶつかり合ったとき、どう折り合いをつけていくか。それがいかに難しいかは、日々メディアに流れてくる離婚ニュースをみれば分かり易い。いじめ、パワハラ、モラハラ、みんなそう。我と我がいさかいを起こして、日々、血が流れる。

小林秀雄がこう言っている。

戦は好戦派という様な人間が居るから起こるのではない。人生がもともと戦だから起こるのである。



この言葉を目にして、僕は戦慄する。子供の頃から「人間」を怖がっていた心象を、小林秀雄が代弁している。けっきょく平和なんてどこにも無いんだろうか? いや、違う。この「戦」というのは、テロリズムのことだけではない。ロジカルで生産的な「戦」も含まれるだろう。「戦」にリアルな暴力が加わると、すべからく血が流れる。そうではなく、戦を建設的にすすめ、平和裏におさめる処方箋とは? これまさに「自我を捨てる」ことじゃないかと思うんですよ。熱くなりそうな摩擦のさなかに「すっと我を引く」というスキル。これができる人は、血で血を洗う(笑)人間社会において、生き延びる種族なんじゃないかと思います。

最後にまとめ。回避すれば争いごとにはならない。しかしそれでは「隠された憎しみ、恐怖、不安」が水面下で増幅していく可能性がある。我と我がやみくもにぶつかると血が流れる。そうではなく目指すべきはロジカルで生産的な「戦」。もし可能なら「一片のユーモア」があると更によろしい。そうして血が流れるような衝突になりそうなら、すっと「我を引くこと」。これって欧米人はけっこう苦手じゃないかしら。離婚率の高さをみても、それは説明できると思う。夫婦でも会社(組織)でも、やはり「よい戦」からお互いに価値のある結論を引き出したいものです。「真の平和」は戦を回避するところにではなく「知恵を出し合って戦を収めた」向こう側にあるんじゃないか。何度も言いますが「すっと我を引くこと」の大事さを想うわけです。以上「言葉からインスパイア」で語ってみました。