スマホという「罠」について考えてみた

私は電車で通勤しています。そこでよく見かけるのが、スマホでゲームしている人。私もiPodでオセロとか将棋をやったクチです。あれはなんというか、時間があっという間に過ぎるね。京都から栗東まで30分くらいだけど、ホントにあっという間。ゲームの「時間を潰す」という効用は、すごいというしかない。無意味になってしまう30分に彩りを加え、テンションを与える。言うなれば「文明の利器」なわけだけど、それでオールオッケーなのか? ちょっと考えてみたい。

スマホのゲームって男子学生というイメージがあるけど、わりと女子も夢中になっているのを見かける。あるいは、壮年のおっちゃんとか。電車きてんのに、ギリギリまで液晶画面に食いついてるし。そう、ゲームの何が怖いって、その「中毒性」なんですよ。報酬を獲得するために、何らかのタスクなりバトルなり繰り広げて、ある一定の「満足感」「達成感」を得る。脳神経学的には、そうして勝ち取った報酬で、ドーパミンが出る。手のひらに生まれた、ちっぽけな快感。そうしてそれが欲しくて、またやる。ハムスターがトレッドミル回ってるみたいなループ構造を、ふと連想してしまう。


ゲームだけじゃない、スマホは多機能なツールであり、他にもYouTube、LINE、各種ニュース、Twitter、Facebook、Instagram・・挙げ始めると限りない。情報と娯楽と通信のモバイル化。確かに便利だし、特にスマホ持ち始めなんかは「生活向上感」さえ感じてしまう。スティーブ・ジョブズが2007年に発表して、世界に一撃を与えたこのスマホ。この「文明の利器」は、本当にオールオッケーなんだろうか?

さっきスマホゲームに中毒性があるって言ったけど、スマホ自体に中毒性があると思う。スマホをちゃんと「道具」として扱えない人は、その「中毒性」に溺れてしまう。特に若者に多いと思うけど、主従関係が逆転してしまう場合。スマホに支配されて、その中毒のループから出てこれないと、どんどん時間が侵蝕されてしまう。おそらくそうした人達は、スマホの中に「全能性」を見てるんじゃないかと。たかがスマホに「全能性」を付与しようというのは、ずばり幻想でありステレオタイプです。もっと一般化して言うと、ネットに「全能性」を付与して考えるのは、重大な錯覚です。

スマホで掴める世界とは・・リアルな世界のほんの一部にすぎない。スマホの中にある世界は、あくまでも矮小な世界、ステレオタイプな世界。そこをちゃんとわきまえている人は、スマホを使うことにより、どんどん賢くなるだろう。逆に上記のように、スマホに支配され侵蝕される人は、どんどん愚かになるだろう。ジョブズの歴史的な一撃により、世界は次第に二分化していくという仮想はどうだろう? 「知の二極化」という、ちょっと恐ろしい未来予想図。スマホが醸し出す「幻想」にいつか気がついて、「ここに全てがあるわけではない」と感じられたら、幸いなるかな。そういう意味では、スマホは一種の「罠」なのかもしれません(笑)。あるいは、ピンかキリかを分別する「試金石」なのかも。

最後に。オールオッケーって、やめましょうよ(←オレが言ったんかw)。それこそステレオタイプなガキの言葉ですよ。大人たるもの、一抹の疑念を抱きつつスマホを使いたいですね。液晶画面を見ながら「So what?(だから何よ?)」みたいな。そうした「距離感」をたもてて、初めて「道具」として扱える。天国のジョブズだって、iPhoneに耽溺して時間とエネルギーを消耗している人のことを残念だと思っているだろう。「ITデバイスで何かを生み出すこと」・・これこそ彼が描いていた理想です。iPhoneにうっとりしても仕方ないよ。スマホという手のひらサイズのブラックホールに呑み込まれるなかれ。以上、電車通勤していて感じたことを記しました。