天使と狂気≒女とLuna

医師四年目くらいの頃、私は京都北部の舞鶴というところで病院勤務していた。あの頃、私は診断もされないままの精神疾患に悩まされ、なんとかかんとか、日々を送っていた。辛いことが多かった。あの頃を振り返って、自尊心という余計なものを持たなかったことが、正解だったんだと思う。そう、私は十分に傷ついていたし、癒やしを求めていた。ある日、レンタルビデオ屋さんで「ごっつええかんじ」というテレビ番組のVHSビデオを借りてきた。コント集なんだけど、私は衝撃を受けた。衝撃というか、笑い泣きしたのだ。それ以来「ごっつええかんじ」のコントビデオを何度もリピートして、笑った。そうして、内奥に秘めた傷を癒やした。思うんですけど、舞鶴の三年間、気が狂いそうなあの三年間をなんとか切り抜けられたのは、この「ごっつええかんじ」のVHSのおかげだったんじゃないかって。それだけ重要な位置を占めるアイテムなのです。

ちょっと暗い出だしになってしまった。ごめんなさい。上記のコントの中で、やっぱり松ちゃんのコントは別格なんだな。逸脱した笑いの奥に、妙に冷静な論理性があったりする。論理性というか、哲学というか、すごい普遍的なもの。だからこそ、みた後に何かが残るし、もう一度みたくなってしまう。今回取りあげるのは「Angelちゃん」というコント。松ちゃんがエンジェル、浜ちゃんと今田が登山客という設定である。まずは、純粋にコントとしてお楽しみ下さい。



天使が豹変して、激怒するこのコント。この振り幅がいかにも「逸脱」していて、笑ってしまう。松ちゃんの怒りの表現は、ほんますごい。大阪のブチ切れたおっさんみたい。確かに面白い、でも・・何か心に残るんだな。このコントの底流には、松ちゃんの密かな主張があると思うんです。それは「二面性」ということ。「二価性」と言ってもいいかな。

たいていの物事には「二価性」があると思う。表と裏というかね。穏やかなものには、塵のように狂気が含まれる。村上春樹は「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」と言った。この意味をどれだけ深く理解しているかで、その人の人生の深さが変わると思う。この「二価性」は、男性よりも女性に近しい言葉です。それはずばり、女性には月経があるからだと、まるちょうは考えます。

例えば中学生の男子の「月経」という現象のイメージって、どんなんだろう? どれくらい痛くて、不快で、憂鬱で・・ 俺なんか「横もれなし!」って、何のことかも知らなかったし。それに、思春期の女子たちも、そうした苦労をできるだけ表沙汰にしない。言い換えれば、彼女たちは阿呆な男子の知らないところで、毎月この「不条理」と戦っていたのです。そういう意味で、女性は若い頃から宿命的に「戦士」なんですね。そうしてそれゆえに、彼女たちの方が彼らよりもずっと早く大人に近づく。月経から生まれ出た矛盾と葛藤の果てに。

女性と「二価性」について、あらためて想う。彼女たちは「満月」と「新月」を内蔵する矛盾した生き物である。それはアイデンティカルですらある。月経で想起されるのは「Luna」というローマ神話に出てくる月の女神。この女神は「満月と新月を内蔵する女性」の中に、密密と息づいている。ちなみに「lunatic」という単語は「気違いじみた」という意味。たおやかさと、この狂気の相克こそが、思春期からつづく窃かな女性の戦いの原点なんじゃないか。

さて、松ちゃんのコント「Angelちゃん」に戻る。松ちゃんは、たまたま天使をモチーフにしたけど、要するにこういうこと。「二価性ってなんや!」という雄叫びなわけね。たおやかなものが豹変して鬼となる瞬間。特に唐変木な男性にとっては、この「豹変」は実に理不尽なんですよね。松ちゃん演じる天使に「わけのわからん女という存在」を感じとった男性は多いのではないか? あるいは「わけのわからん母性」かもしれない。世の中は「わけのわからん」もので満ちあふれている。難しく言うと不条理だけど、それをしかと笑いに昇華した松ちゃんに拍手。いつまでも、愛おしい映像です。以上、お気に入りの動画で語ってみました。